はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.09.06

私のせいじゃないもの。

発達障がいの当事者も、場合によってその家族の人も、障がいがあることについて引け目を感じ、自分が悪い、と思ってしまって苦しまれることが少なくないように思います。当人は「なんでこんなことができないんだ!」と怒られ続け、「まじめにやっているのか?」と責められ、「努力が足りない」と叱られる。「お前なんかいない方がいい」とまで言われることもあります。実際「できない」ことについてはできなかったりもして否定できず、そうやって「自分が悪いんだ」と思わされるということも起こります。

障がい児のお母さんも、客観的にはそうでないことがわかっていても、「何か自分が悪かったのではないか」「もっといい育て方をしていれば………」などと自分を責め続ける方が少なからずいらっしゃいます。とくに障がいを告げられたころなどは、思い詰めて無理心中を考える方も少なくないように思います。

「私が悪い」「私の努力が足りない」「努力できない私が悪い」「自分が苦しいのは、苦労するのは、結局自分のせいなんだ」「すべては私の責任だ」………そういう思考になってしまい、ぐるぐると考えがそこを回って抜けられなくなることもあります。どうしようもなく苦しい世界です。

 

でも少し視点を変えてみると、また違った風に「責任」を考え直すこともできます。「私のせいじゃないもの」という世界、ただし、「だから私には責任がない」という開き直りの話でもない、そんな世界の話です。それが当事者研究の熊谷晋一郎さんと哲学者の國分功一郎さんの対談本『<責任>の生成:中動態と当事者研究』という去年の暮れに出た本で語られていることです。(※)

 

ところで、本のタイトルにある「中動態」ですが、ほとんどの方には聞きなれない言葉でしょう。能動態でも受動態でもない、中動態です。國分さんがそれをとても重視して議論をします。

能動態は「私がプレゼントをあげる」といった、その人の能動的な働きかけを表すもので、受動態は「私はプレゼントをもらった」と、その人が誰かから働きかけられてそれに影響されたことを表すものです。英文法とかを習ってしまうと、世の中には能動態と受動態しかないように感じられてしまうかもしれません。ところがもともとはそうでなかったというのですね。そこにあるのが中動態。

詳しく話すと少し大変になりますが、たとえばギリシャ語で「欲しい」という単語は中動態なのだそうです。「惚れる」もそうらしい。これも「私は(それが)欲しい」と能動態で表現できますよね。「私は(あなたに)惚れる」とか。でも、たとえば思い余って「好きだ!」と声を上げたとします。その時「私があなたを好きなんです」というふうにややこしく考えてはいなくて、ただ「好きだ!」という思いが世界を満たしていて、その気分のなかにひたっている状態でしょう。

それを冷静になって文章に表すと「私は「(あなたが)好きだ!」と叫んだ」という風に、「私」という主体の振る舞いとしても語られることになりますが、それは後からのことです。「松島や、ああ松島や、松島や」という芭蕉の有名な句がありますが、これを「私は松島を見る、ああ、これが松島なんだ。松島がそこにある」などと表現したらばかみたいですよね。ただ「松島や」と感嘆していることにこの句の命があります。

松島は動詞ではないので、言語学の「態」の話としては適切ではないですし、國分さんの議論は動詞に限定されているように見えますが、たぶんこの話は名詞を含む体験された世界全体について言える話で、いずれの場合も「誰がどうする」「誰がどうされる」という主体の話は問題にならない世界がそこに表現されています。

実は赤ちゃんの「一語文」もそういう世界でしょう。「わんわん!」という時、それは「わんわんがそこにいる!」ということでもあるし、「私、わんわんみつけたよ!」という意味にも「お母さん、わんわんいるから見て!」という意味にも「わんわん怖い!」という意味にも「わんわんに見られた!」という意味にもなる。どれか一つに決められない「わんわん!」の世界です。

能動態も受動態も働きかける「主体」がどちらか(能動なら自分、受動ならその動作を行う相手)に決まっています。でも中動態はそこがはっきりは表現されない世界になります。言ってみれば能動と受動がわかれずに一緒にその言葉のなかに表現されているような世界です(※※)。

能動と受動で語られる世界は、そういうわけで「責任の主体」が明確にされることになります。「あいつが私を殴った」にしても「私があいつに殴られた」にしても、殴ったのは相手です。殴ることの責任は相手になります。でも責任って、実はそう簡単なものではありません。「私があいつを殴ったのは、あいつが私を殴り続けたので、しかたなく殴り返したのだ」ということだったら、原因は相手ということにもなりますよね。

でも「あいつが私を殴り続けたのは、私が繰り返しあいつを侮辱し続けたからだ」となると、今度はまた原因が私ということになります。というか、少なくとも「お互い様」の世界になりますよね。さらに「私があいつを侮辱したのは、あいつが馬鹿なことばかり繰り返して人に迷惑をかけ続けるからだ」などと、この関係は無限にさかのぼることができて、切りがありません。

もともと因果というのは「めぐる因果は糸車」ともいうように、そうやって果てしなくさかのぼっていく切れ目のないつながりの世界です。そして人間関係というのもそういうものです。

でも、たとえば裁判で「AがBを殴って死なせた」という事件が問題になるときには、「A」を責任の主体としてその罪を問うことになります。もちろんそれ以前の事情を考慮して、その罪の重さについて決めるようなことはありますし、完全に正当防衛として認められるような状況であれば、「A」には責任はないということになりますが、その場合は今度は「B」が責任の主体となります。

そうやって人間関係を社会のなかで調整するときには、とりあえず「誰かに責任を負わせる」という仕組みが必要とされるわけです(このあたり、だれが責任の主体として認められるかなど、関連する大事な話としてはまたたくさん述べることがあるので、切りがなくなりますから、とりあえずこの程度で話を進めますね)。

でも、ほんとのほんとのことを言えば、原因は無限に過去にさかのぼれるのが実際のところなのです。

 

もうすでに最初の話とのつながりが見えてきた方もあるかと思います。「障がい」の「責任」も同じことだということですね。「同じミスを繰り返す」とき、そのミスをした人に「責任」があるということになり、その人が責められます。でもその人はわざとやっているわけでもなければ、努力していないわけでもない。気がつくと失敗をしている。それがADHDの人の特性と言われるものの一つです。だとすると、「原因」はその「特性」であって、その人自身ということではない、という話にもなります。

じゃあその特性がなぜその人にあるのかというと、それは親のせいだ、ということにもなりかねません。自分が生んだ子なのですから。その特性は遺伝子におそらく関係しているでしょうから、親の遺伝子が原因だということにもなる。でも親がその遺伝子を持っているのは、祖父母のせいだ、という話になります。これは永遠に過去にさかのぼっていく話です。

自分は自分の意志でこの世に生まれてきたのでもなければ、親を選ぶこともできない。だから仮にそういう遺伝子が「原因」だったとしても、それは私の責任とは言えません。自分に責任のないことを「お前のせいだ」と責められるのはどこか理不尽です。同じように親も自分の責任だということはない。

こういう話をすると、かならず、「じゃあだれも責任を取る必要がないのか」という疑問がわいてくると思います。いや、そういうことじゃないんだ、というのが中動態の考え方を参考にしながら國分さんが一生懸命言おうとされることなんですね。そして熊谷さんは当事者研究の流れのなかで見えてきたことから、同じようなことを感じ取られています。

私なりの理解で言うとこういうことのように思います。能動と受動を明確に分けて、能動の主体に一方的に責任を負わせる形の理解は、言ってみれば因果関係の実際を無視した形です。そうではなくて、あることが起こるときには、お互いが関係している。つまりそれは関係の問題なのだということになります。

たとえば不注意を繰り返す人に責任がある、という考え方は、それは「障がい特性」が原因で、その人のせいではないんだという考え方が生まれると、今度は周囲の人に責任が発生し始めます。つまりそういう特性を持った人に対して「合理的に配慮」する義務があるのに、それをしなかったから、自然とそのミスが繰り返されることになったのだ、ということになるわけです。たとえば白杖をもって歩いている視覚障がい者が向こうから歩いてくる誰かにぶつかることがあったとして、それを視覚障がい者が悪いとは言えないでしょう。それと同じようなことです。

そうすると、問題は単純に「誰かのせい」ということではなくて、「お互いにお互いの特性を理解して、問題が起こりにくくする責任があったのに、それができなかったせい」ということになります。そしてそのような形で「お互いに努力する」ことについては「お互いに責任がある」ことになり、一緒に努力しなければならないという共同の責任がそこに発生することになります。

こう考えてくると、過去に起こったことはすでに取り消すことが不可能ですから、その意味では責任は取れないのですが(※※※)、今起こっている問題、そしてこれから起こることが考えられる問題についてはそれにかかわる人がみんなそれぞれに責任を持つということになり、「誰も責任を取る必要がない」という理屈は成り立たなくなるのです。

責任は過去の問題ではなく、これから一緒に生きていくという未来に向けての問題なんだということでしょう。

ということで、「私のせいじゃないもの」という考え方はとても大事だということになります。障がいは私のせいではない。でもその特性によって周囲とのあいだに生まれる困難をこれから解決していくということは、「お互いの責任」なのだということでしょう。

 

※ 熊谷さんは前にも少し紹介したことがありますが、ご自身が脳性麻痺で車いすの生活をされています。今は東大の先端研で当事者研究の第一人者として活躍されていますが、その身体で(と普通は思うでしょう)、小児科を専門とするお医者さんでもあります。医学をおさめて「客観的」に障がいを見る目を持ちながら、障がい当事者としてその見方では自分の体験してきた障がいを理解きれないという限界を感じ、そのことをご自分の経験をもとにして「リハビリの夜」という本に書かれていて、これも本当に刺激的で面白い本でした。

当事者研究に関するワークショップでパートナーの綾屋紗月さんが話をされたときにも車いすで来られていて、終わった後でちょっとお話しできたのですが、その時持参の拙編著「ディスコミュニケーションの心理学」をお渡ししたときも、直接受け取るのは難しそうだったので、サポーターをしている学生さん(?)に手渡す形で差し上げました。そのご縁もあって、みんなの大学校の引地達也さんと綾屋さんと私の三人で行った鼎談は、今情報誌「つなぐ」で連載中です。

※※ 正確に説明するのはいまのところ私には難しいですが、バンヴェニストという人の定義だと、【主語⇨能動態動詞】⇨対象  VS 【主語⇨中動態動詞】 という形で図式化できるようにも見えます。中動態動詞のあとには反省的に分析すればその動作が向けられた対象が見えてきますが、そこが明確でない状態(という意味で能動と受動が混在するという感じでしょうか。

この中動態からやがて受動態が分化していくのだという説明で、そうなると【主語(=相手)⇨能動態動詞】⇨対象(=自分)という関係を逆転させる形で、【受け手(=自分)⇦受動態動詞】⇦主体(相手) が成立するということなのかなと想像します。なお【 】は主体の内的な世界として体験されるものを表しています。いわゆる内界と外界を隔てたものですね。

EMSの媒介構造の概念で言えばそれらは全体として ………(S1)=(O1)⇒(S2)=(O2)⇒(S1)=(O1)⇒(S2)=(O2)⇒…… と続く主体媒介的行動の連鎖の一部を切り取って、そこに内界と外界の認識を組み込んで成立するもの、として理解できそうです。……【(S1)=(O1)⇒】(S2)=(O2)⇒(S1)=(O1)⇒(S2)=(O2)⇒……、………【(S1)=(O1)】⇒(S2)=(O2)⇒(S1)=(O1)⇒(S2)=(O2)⇒……、………(S1)=【(O1)⇒(S2)】=(O2)⇒(S1)=(O1)⇒(S2)=(O2)⇒……、という感じですね。Sは主体、Oは媒介対象(言葉でも身振りでも物でも、なんでもいいですが、それによって相手や物に働きかけるツール)で、その連鎖のなかで色付けた部分が上の図式に対応します。内界と外界の分裂については、間主観的認識から共同主観的認識の形成に関する話を組み込んでいく必要が出てきますので、EMSの図式だけでは表現できませんが。

※※※ いや、賠償金を払うなどのことで過去について責任が取れるじゃないか、と思われた方もあるでしょうか。もちろんそうですが、それは「過去に起こったことで今生じている困難を軽減する責任」と考えれば、やはり今と未来のことと見ることができます。

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