2021.10.04
奇声はコミュニケーションのことば
以前、「奇声でつながる」というブログを書いたことがあり、今も人気記事のトップなのですが、最近もまた「奇声」について思うことがありました。
「奇声」というネーミング自体、「奇妙な声」ですよね。言い換えればわけのわからない叫び声だったり、そういう理解のされ方をしています。
でも実際奇声になやむ保護者の方のお話などを聞いてみると、少なくともその一部はわけのわからない叫び声ではありません。「ぼくはいやなんだ!」「やめて!」「そうじゃない!」………など、言葉にはならないけれど、そういう気持ちをそんな声で表現しているのだと理解できます。
それが訳も分からない叫び声に聞こえるのは、何がいやなのか、どうしてほしいのか、なぜそんなに苛立っているのかがわからないからだろうと思います。なぜそれがわからないのかというと、実はそう叫んでいる本人自身もよくわからない混乱の中にいるからでしょう。
つまりお互いに、「なんなのかわからない」「どうしていいかわからない」、そういう状態に陥っている状態で、子どもの側が「奇声」を発する。そう考えてみると、実はそこで「奇声」発しているのは子どもだけではない、と思えてきます。その「言葉にならない叫び」を聞いて、どうしていいかわからなくなり、余裕など全くない状態でおろおろしたり怒りを感じたりしている大人の側も心のなかで「奇声」を発しているのでしょう。「もういい加減にして!」などと。
言葉遊びに聞こえてしまうかもしれませんが、そんな形で子どもと大人が「一緒に」気持ちをぶつけあっている。そんな状態が「奇声」と言われるものなのかもしれません。その限りではお互いにちゃんと気持ちが共有されている、あるいは通じ合っているのです。
奇声は「子どもの問題」なのではなくて、子どもと子どもをとりまく人々や環境との関係の中に生まれる問題です。そして奇声やそれへの態度や応答の形でお互いに何かを伝えあっている。だとすれば、それもまたコミュニケーションのことばとは言えないでしょうか。
- アニメ聖地巡礼と自閉=定型間のリアリティの共有
- 障がいの問題は実はとってもシンプル?
- 「自閉症を語りなおす」書評
- 型にはまらない表現者:ルソーとセザンヌと自閉
- 【クラファン開始】”普通”を頑張る人の日常を支えるアプリ
- シンポ ダイバーシティー雇用とインクルーシブなかたち
- 自閉的意味の世界は国境を超える
- 「違い」を異なる文化の場で語り合う
- 逆SSTから見えてくる会話分析の課題
- R君の積み木(12)
- 文化と発達障がい
- 競争と共生の間にある障がい者支援
- 多数派世界の中の自閉的体験
- 自閉症を理解するための論文
- レジリエンスとモデルの存在、そしてその文化性
- 逆SSTが広がり始めた?
- 障がいを考えること=生きることの原点に戻ること
- 今年もよろしくお願いいたします
- 発達障がい児事業所の役割を社会学的に考えてみる
- 「こだわり行動」はなぜ矯正される?
投稿はありません