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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.12.04

「奇声」でつながる

発達障がいの子どもにしばしばみられる行動として「奇声を発する」と表現されているものがあります。

「キー!」といった金切り声など、「意味が分からない声」を発したり、繰り返したりするような場合にそういう表現が使われることが多いようです。

ただ、この「意味が分からない声」というのは、本当はそうではないんだ、ということをここでも何度か検討してきました(例えばR君の積み木の事例)。「意味が分からない声」は、実際は単に「(聴く人が)意味が分からない声」であって、本人には「意味のある声」だという話です。

たとえばとても嫌な顔や怒った顔で「キー!」と言った場合、基本的には「不快なんだな!」「怒っているんだな!」とその「意味」をこちらが理解してもまず大きく間違うことはありません。ただ、「なぜそういうネガティヴな感情になっているのか」という、その理由がわかりにくいために「意味もなく奇声を発している」と見られやすくなります。

子どもの困った「奇声」としてスタッフから相談されたある事例では、録音を聞いてみると独特の節があったりリズムがあったりして、それはその子なりの「歌の一つ」だと思える例がありました。ただそれが私たちが通常楽しむ「歌」の感じとはかなり異なるので、やはり単なる「意味のない奇声」に聞こえてしまって、「どうやって直したらいいのか?」という「療育の課題」になってしまったりするわけです。

前者の「奇声」は大人に対する一つの激しい訴えかけという大事な意味があるのですから、「奇声」を発しなければならない状況を探って調整することが必要ですし、後者の「奇声」は自分の中のある気分の表現ですから、むしろそれをその子と気分を共有し、調整するためのツールとして利用したらいいということになります。

「わけのわからない声」というのは、「聞いている人にとってわけがわからない」だけであって、本人には「意味のある声」、ある種の表現なのだという理解の仕方をすることで、「わけのわからな」かったその子の世界に近づき、その世界を共有する手掛かりになるということです。

実際、あるケースの相談で、子どもの「奇声」について「それに合わせて一緒に歌ってみたら?」とアドバイスしたことについて、スタッフの方からこんな報告ももらいました。

「やってみたところ子どもの声と私の声のトーンが一緒になったのです。そしたら子どもがニコッとして私の顔を見たのです。なんともいえない気持ちでした。子どもと自分がなんだかわからないけどなにかでつながっているように思えました。
大事なのは子どもの今の気持ちに寄り添っていくことだと実感しました。子どもの立場にたって、子どもの目線で物事を見ていくことは大事だと思いました。」

人は歌(声)で自分の気持ちを表し、相手に語り掛け、そして自分に語り掛けます。歌は自分の気持ちを鎮めたり慰めたり、逆に昂らせたりする力を持つすごいツールで、歌うことで自分の気持ちが調整されていきます。そして歌は自分だけでなく、人に伝わっていきます。一緒に歌うことでひとは人とつながります。

言葉で自分の思いが伝わらず、苦しみ続けたアスペルガーの人が歌や音楽でひととつながって救われる話も時々聞きます。(たとえば「手紙~小さいころの私へ~」)歌は言葉を超えて人をつなぎ、そして人に生きる力を与えることができるツールなんですね。

この事例の子の場合、「奇声」は悲鳴でも攻撃の声でもありませんでした。そしてその「奇声」を大人が「歌」として意味づけることで、その「奇声」は人とつながるツールとなりはじめました。そしてこの担当の方は支援が楽しくなられたそうです。もしそれを「奇声」と意味づけ続けたら、それは人とのつながりを断ち切るツールになっていったことでしょう。

子どもの活動をどういう風に掬い取り、意味づけていくかによってその後の展開が変わります。子どもの活動はその大人の意味付けに支えられて発達していきます。発達心理学的に言えば「足場架け(スキャフォルディング)」の典型的な例と言えます。人生という物語を紡ぎながら生きていく人間の一番基本の姿ですね。

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