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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2022.01.09

支援は上下関係?

障がい者として支援を受ける方が苦労することのひとつに「障がい者を演じなければならない」ということがあるそうです。当事者研究の熊谷さんなんかも時々言われています。

どういうことかというと,自分を支援してくれる人は,基本的には「困難を抱えている人を助けたい」とか「役に立ちたい」という「善意」で支援されるわけです。そのことは支援を受ける側もわかっていることが多い。

それでいろいろな支援を受ける中で,支援者が「ここはこういうふうに手助けをしなければいけない」と考えて手助けをするのですが,その時,場合によって障がい者の側は実はそれは「手助けしてもらわなくても自分でできる」ことだったりもします。

で,そこで相手が「善意」なのはわかっているので,「自分でやります」とは言いづらくなったりするというんですね。人にもよるでしょうが,たしかに相手の善意がわかっていれば,断ることは難しくなるのはそうだろうと思います。

そうすると,本当は自分でやりたいことも人にやられてしまい,しかもそのやり方も自分が望んだやり方ではなかったりするのだけれど,それを言えずにその人の支援に「従う」という「配慮」をしなければならなくなったりする。つまり相手の持っている障がい理解に合わせて,その「障がい者」を演じて見せなければならなくなるということになります。そして支援者の側はそのことになかなか気づけない。

そのこともなんとか工夫して改善していく必要がありますが,それでもまだこのレベルだとすぐに深刻な問題になることはあまりないでしょう。でもそういう関係が積み重なり,強固になっていくと悲劇も起こりはじめます。

支援者の側が「障がい者はこういう課題を抱えているんだから,こういうふうに支援をしてあげなければならないし,障がい者もそれに応えて頑張らなければならないんだ」という固い信念を持って,「それ以外は許せない」気持ちになられたりする場合があるようで,そうなると結果として障がい者の側は「相手に応じてあげる」という「配慮」のレベルを超えて,「相手に従わされる」状態になります。

つまりそこには支援者と被支援者の間に「支配=従属」の上下関係がつくられちゃうという悲劇が起こるわけです。もちろんその場合も支援者の側は基本的には「善意」で「正しく」頑張っているという信念を持たれているので,それに従わなければ障がい者が不幸になると思われたりして,ますます上下関係が強められることになります。

そこからこんな悲劇的な展開になることもあります。支援者の側が,自分の「善意」に従わずに,そのやり方に抵抗するような障がい者を「ダメな障がい者」とか「悪者」と見なすことが起こりはじめるのです。「こんなに頑張って<やってあげている>のに,それをありがたいとも思わずに<反抗する>とは許せない」という感情が起こるようです。

そういう状況を繰り返し経験してきた障がい者の中には,こんな風に疑問を抱き始める人もいます。「この人は私のためにやってあげているんだというけれど,本当は自分のためにやってるだけ,自己満足のためにやってるだけじゃないか」

確かにそうも言えるわけです。支援される側からすれば,自分のことは無視されて勝手にいろいろ押し付けられ,無理やり支配されている感じになりますし,そこには<やってあげている>という上から目線しか感じられなくなるわけですから。そういう「善意」の「強要」はやっぱり耐えられなくなるでしょう。

その状態がさらに進むと,「善意の支援」というものがそもそも信じられなくなるということも起こります。こうなると関係は厳しく対立的になって,その修復は本当に難しくなりますね。

 

もちろんこれは悲劇的な展開になった時のことで,そうでない支援の方が多いと思うのですが,ただ,ともすればそういうふうになってしまう場合もある,ということはしっかり考えておくべきことと思えます。

ではなぜそういうことが起こってしまうのかという理由を考えてみたいと思います。

人間は,というかこれは生命一般に言えることですが,自分の状態を保つ,ということがとても大事です。おなかがすけばご飯を食べる。寒ければ体温を挙げる工夫をする。眠ければ寝る。疲れれば休む。……そうやって自分の体を維持しています。それは「バランスをとっている」ことでもあります。

そしてそういう「バランス」は身体だけではなく,人間関係についても言えるのですね。自分がお金を払えばお店の人は商品を渡してくれる。挨拶をすれば挨拶を返される。プレゼントをすればプレゼントを返される。優しくされれば優しく仕返す。攻撃されれば反撃する。……

そしてそのバランスが崩れると,関係が崩れていきます。挨拶したのに無視されれば,相手に腹が立って関係が悪くなります。プレゼントしたのに何かのお返し(プレゼント返しでも,感謝の気持ちでも,内容はいろいろありえますが)がなければ,それ以上プレゼントする気持ちもなくなっていきます。相手に気づかいしているのに無視されたり否定されれば怒りが湧いてきたりします。

うまく回っている関係というのは,その辺でバランスがうまく取れていて,持続しない関係はそのバランスが崩れているわけです。

当然のことですが福祉の中での支援者と被支援者の関係でも,このバランスが大事になります。支援をする人の支援への思いは,支援によって「お金を稼ぐ」ことではありません。もちろん生きていくために必要なお金はいりますが,お金を稼ぐことが最大の目的なら福祉は効率が悪すぎます。

支援者の支援への気持ちを支えるのは,やはり「この人の役に立っている」という感覚でしょう。支援というプレゼントを相手に渡すことで,相手の人が喜んでくれたり,幸せになってくれるように感じられる。そのこと自体が支援者の喜びとして,一種のプレゼント返しになります。だからたとえば何かを支援してあげたらその都度お金を払われたりすれば,それはなにか自分のプレゼントを「お金で買われた」感じがしてしっくりこないことにもなります。

つまりそこには経済的な交換ではなく,気持ちの交換が大事になっているわけです。これが福祉に働く人を動かす基本的な心理的しくみになります。

そうすると,支援者と被支援者の関係がうまくいかないばあいは,この気持ちの交換がうまくいっていない場合だということになります。ではこの気持ちの交換がうまく働かない場合とはどういう場合でしょうか?

これも経済的な交換を例に考えてみましょう。たとえばお金を出して買ったものが,自分の期待していたものと異なっていたらどうでしょう?悔しい気持ちになりますよね。もちろん不良品であれば取り換えてもらうでしょうし,詐欺のような場合は警察に訴えたりしてなんとかバランスを回復しようとするでしょう。

そんなふうに「相手への期待と受け取った内容がずれる」ということが起これば経済的な交換はうまく回らなくなります。気持ちの交換もこの点は同じです。

たとえば支援者が支援をする,というのは相手の人に対して一種の「贈り物(贈与)」をすることになります。「相手のために」することですから。ですから支援者としてはその自分の願いがかなったと感じられることが大事です。たとえ支援に苦労が伴ったとしても,そのことが「相手のためになった」と思えたら,それが支援者にとっては「贈り物へのお返し(反対贈与)」となって,満足できることになります。

ではどういう時に「相手のためになった」と思えるかと言えば,たとえば相手が喜んでくれたとか,感謝の言葉をかけてもらえたとか,あるいは状態がよくなった,幸せそうになった,といったことです。そのことで支援者と被支援者の絆が強められたようにも感じられたりします。支援者の側はそこで「自分が役に立った」という思いになり,それが今度は支援者にとっての喜びともなるわけで,そういう交換が繰り返されれば,支援者と被支援者の関係はとても良いものになっていきます。

そこから考えていただければすぐにわかると思いますが,最初に書いた悲劇的な展開の場合は,この「期待」がお互いにずれてしまっている状態と考えられるわけです。

つまり,支援者の方は「これをすることがこの人のためになる」という期待をもって支援をします。ところがいつまでたってもその結果が見えない。それどころか相手から否定的なことを言われたりさえします。逆に支援を受ける障がい者の方から見れば,自分が本当にしてほしい支援はいつまでたってもかなえられず,自分にとっては苦痛でしかない「支援」が「善意」の名のもとに押し付けられる。

もちろん一時的に苦しくても,その我慢と頑張りが自分の状態の改善に結び付き,成長する感覚に結び付く場合には少し長い目で見れば問題は改善していくのですが,いつまでたってもそうならなかったり,その見通しが全然感じられなかったりすれば,この「支援」は耐え難いものになります。そして関係が破綻していくことになる。

「支援」とか「善意」とかが一体何を意味しているのか,ということの理解がお互いにずれていて,自分が相手に対する「善意の支援」と思っていることが相手にとってはぜんぜんその意味に感じられないという形で,典型的なディスコミュニケーション状態がそこに生まれていることになります。

 

このディスコミュニケーション状態を改善するには,理想的にはそのズレに気づいて「何が必要な支援なのか」をいうことについてお互いの見方を一致させていくことが必要です。そうすればお互いに納得できる形で「支援」が成り立ち,「善意」が善意として成立する状況が生まれます。

ところがそのズレに気づかず,しかも支援者が自分の見方を調整せずにあくまで強硬に押し付ける形になってしまった時,そこに「無理やり相手を従わせる」という「支配=従属」の上下関係が生まれてしまうわけです。

そういう悲劇的な展開を避けるためにも,支援者の側も「当事者の視点を理解する」努力が欠かせないことになります。もちろん被支援者の方も支援者の視点を理解すること(誤解しないこと)が必要になるわけですが,一般的には障がい者の方が立場が弱いことが多いため,その分支援者の側の一層の注意が必要になるのでしょう。

そうやってお互いを理解しながら関係を調整し,「感情の交換」をうまく回してよい関係を進めていくこと,それが「対話的相互理解」に基づく支援ということになると思います。

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