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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2022.07.07

生態学的アプローチと障がい

研究所の客員研究員をしてくださっている森直久さんから,こんど出版された「想起:過去に接近する方法」(東大出版会)を送っていただき,今日届きました。以下,いつにもましてちょっと自己満足的な文章になってすみません。なんか語りたい気分になってしまいました。

ちょっと個人的な思い出話ですが,森さんとは私の専門の一つである法心理学の供述分析関係でもうずいぶん前から交流があります。森さんたちが供述の仕事を最初にされたのは冤罪事件として後にDNA鑑定で無罪が証明されてしまった「足利事件」についてです。そこで誤って犯人とされてしまったSさんの虚偽自白を,スキーマ・アプローチという新しい分析手法で見抜いたという大事な仕事もされたのです。

もし森さんたちの分析を当時の裁判官たちがまじめに受け止めていれば,無罪を公判で主張し続けたのに最高裁まで一貫して有罪にされて殺人罪で服役したSさんも,そんな悲劇にはあわなかったのです。さらに言えばうまく逃げた真犯人も捕まった可能性があるのです。

私のほうは供述の仕事を最初にしたのは,これも冤罪事件として確定した甲山事件に関して,弁護団から知的障がい児たちの証言が取調官の誘導によってつくられてしまったことを実験的に証明してほしいと頼まれて,かなり大掛かりなシミュレーション実験をしたときでした(「生み出された物語」)。私が発達心理学が専門で,障がい児の発達相談などをやっていたので,知的障がい児の関係する事件と言うことで弁護団に分析を頼まれたのですね。

そうしたら,「誰も嘘を付こうとせず,誰も嘘を付かせようとせず,ただ事実を明らかにしようと幼児たちに繰り返し聴取を行い,その結果子どもたちの証言が一致して明らかにされた<事実>が,実は事実ではなかった」という結構センセーショナルな現象が確認され,それを分析したところ,甲山事件の知的障がい児たちも意図せずにそういう虚構の物語を語ったのと同じ心理学的仕組みが見えてきたのでした。

そういう供述分析の世界でも森さんとは昔から直接間接に交流がありましたし,法と心理学会の学術誌「法と心理」については私も昔編集委員長をやり,森さんも後にやられました。問題関心が重なるところは供述分析に限らず,そのほか,北大の友人に頼まれて私の文化理論のあらましを書いた「文化とは何か,どこにあるのか」に関する話を研究会でさせていただいたときにも駆けつけてくださって,いろいろ議論させていただきました。

そして森さんもやはり「障がい」とその支援の問題にも関心を持たれていて,大学の講義では「障がい」の学生を含む学生同士のコミュニケーションの場をデザインしながら,新しい障がいと支援の理解にも挑戦をされています。ようするに,森さんとはお互いにいろんなところに関心をもっていろんなことをやって,それがずいぶん重なって進んできたことになります。

この本についても,これからじっくり拝見して,いずれいろんな方たちを交えて議論をしたいなと思っているのですが,ここでは本の冒頭に「シリーズ刊行にあたって:生態心理学から知の生態学へ」と題された文章(この本は「知の生態学の冒険:J.J.ギブソンの継承」というシリーズ本の一冊なので,それら全体の序文のようなところです)に面白い言葉がありました。ここでも森さんと私の関心が重なります。ちょっと長い引用で,かなり専門的なところですが,障がいの問題を考える上でも大事な議論かと思います。

「(行為と実在の関係を核とした,ギブソン的な新しい実在論は心理学の中で一部受容され始めてきたが)しかし,他方,生態学的アプローチもう一つの本質であるラディカリズムについては,心のはたらきの科学的研究の中核部において深く受容されているとは言い難い。なぜなら心の科学での問題解決は相変わらず専門家による非専門家(一般人)改良を暗黙のパラダイムとしている。たとえば,各人の発達の過程を社会的に望ましいものに変えること,各人のもつ障害を早期に「治療」すること,各人の心理的な問題を解決して社会に適応できるようにすること,従業員が仕事に従事する動機を高め生産性を上げること,社会規範に合わせて自分の行動傾向を自覚することなどが奨励されている。専門家が人々の内部に問題の原因を突き止める,そしてそれに介入することで解決を図る。病の源は個々人の内にあり,それを取り除くために専門家に頼る,逆に非専門家の側も専門家による介入を正しいと思ってしまう………この頑強な発想が当然のごとく受け入れられている。心の探求する脳神経科学も同様の陥穽にしばしば陥っている。最終的に人がどう振る舞い何をなすべきかについて専門家たちに伺いを立てるように仕向ける暗黙のバイアスが,心をめぐる科学の発想には内蔵されているかのようである。
あえて言おう。このような科学観の賞味期限は既に切れた。生態学的アプローチのラディカリズムとは,真の意味で行為者の観点から世界と向かい合うことにある。それは,自らの立場を括弧に入れて世界を分析する専門家の観点を特権視するのではなく,日々の生活を送る普通の人々の観点,さらには特定の事象に関わる当事者の観点から,自分(たち)と環境との関係を捉え直し,環境を変え,そして自らを変えていくことを目指す科学である。」(河野哲也・三嶋博之・田中彰吾2022)

 こうやって紹介記事を書きながら改めて思いますが,「科学者」は研究対象から距離を取って,研究対象を操作することによって,その対象の性質を「客観的に」調べなければならない,というのが,近代で普通だった考え方です。でも,今世界は近代のしくみががらがらと音を立てて崩れ,次のシステムを模索している時代に入っています。哲学ではとっくの昔にそういうシンプルな客観の話は通用しなくなっていますし,自然科学の最先端と考えられている物理学自体,「観察者」と「観察される対象」が独立している,という話は相対性理論でも量子論でももうとっくに破綻してしまっています。

「障害」の理解も同じです。「障害を持たない健常者・定型発達者」が「客観的」に外側から「障害」を研究し,明らかにする。そういう話はもう限界に来ているのは明かに思えますし,なぜそれが限界に来ているのかについては私と渡辺忠温さんと大内雅登さんでこの間理論論文を書きました。べつに「客観的」であることが悪いわけではないし,古いタイプの自然科学的研究にもそれなりに今もこれからも意味があるように,この古いタイプの「客観的」な「障害」の理解にもそれなりに意味があるのですが,そうやって外側から見ている限り,障がい当事者の主観の世界には絶対に迫れず,「障がいを主体的に生きる」という,障がい者にとって生きることの意味に関わる世界にはどうしたって手が届かない,というのも明らかです。もっと言えばそうやって「障がい者」を「障がい者」として見るという「客観」を装った視点自体が,その研究者の(文化性を持った)主観に他ならないわけです。

そういう否定しようもない現実を前提にして,なおかつある意味で客観的に見る視点を,その限界を持ったものとして理解して使うのなら,それは大事な視点の一つになるのですが,そういう限界の自覚がないままに,逆にそれこそが唯一絶対の正しい視点だと思い込んでしまうと,それは「障がい者」を自分から切り離して対象化し,外からコントロールする,というパラダイムに無自覚に落ち込んでしまうことになります。

というわけで,そういう見方が理論的にも実践的にももう過去のものになっているのは明かだと私には思え,ですから「このような科学観の賞味期限は既に切れた」という言い方はとてもしっくりくるのですが,ただ,現実の世の中の多くの部分はまだまだ賞味期限の切れた理解の仕方で動いているので,その先に行くのはやはり時間がかかります。人間,新しい考え方で物を見て,生き方を作るのは大変ですし。障がい児の保護者の方が,古い世間の目で自分のお子さんを見ることで,ありのままのお子さんを見つめられなくなり,自分の世界から切り離した理解になり,受け入れづらくさえなりながら,そこから脱して新しい関係を作りなおしていくことが本当に大変だというのとちょっと似ています。それまで自分があたりまえのように思っていた見方や生き方を調整するのは,それだけ大変なのですし。

世界全体が大きく変化している時代の中で,障がいの見方とその支援の見方もどんどん変わっていきます。上に紹介した生態学的アプローチの理論的な問題は一見障害の問題に関係なく思えるかもしれませんが,実はその世界全体の大変動の中で,深いところで共通性を持っていると私は思っています。障がいを「人と人が状況の中で生きている」という現実から切り離して「客観的」に見る考え方が根本的に見直しを迫られるように,生態学的アプローチでは,人とその人が生きる環境を切り離して分析するのではなく,人が生きているという現実を,主体が状況の中に埋め込まれて周囲の環境と共に動いているものとして理解していきます。本書での森さんの言葉を使えば

「生態学的知覚論では,ヒト(動物)が行っていることはただふたつ,「知覚」と「行為」である。ふたつとはいえ,両者とも一方は他方を離れて存在せず,表裏一体となって機能している」(序。p.5)

となるでしょう。少し言葉を変えると「世界の中にいる主体」として心理現象も分析するわけです。

この話は少し進めると,そういう「世界の中にいる主体」を分析する人も「世界の中にいる主体」以外ではない,という,ぐるぐる回り続けるような議論に進んでいく必要があるのですが,この話を突き詰めていくと,興味深いことに仏教哲学の考え方にもつながっていきます。ということで,問題は「実在とは何か」「関係とは何か」という話に進んでいくのですが,賞味期限が既に切れた古い科学観を超えて,理論的にも実践的にも新しい障がい観と支援観を切り開いていくうえで,そのあたりを深めていくことが大きな課題になっていると思っています。逆SSTもそういう課題への挑戦の一部になります。

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