発達支援交流サイト はつけんラボ

                 お問合せ   会員登録

はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2023.02.23

障がいを考えること=生きることの原点に戻ること

私はみんなの大学校の引地達也さんがコーディネーターをされている「2022年度文部科学省委託事業「地域連携による障害者の生涯学習機会の拡大促進」:重度障害者の学習支援の展開と地域と指定管理業者による障がい者の生涯学習の場づくりの研究事業」というプロジェクトの連携協議会委員をしているのですが,昨日その最終報告会がzoomでありました。

生涯教育の推進という視点から,就学年齢後の障がい者にも学びの場を作っていく,という事業です。

私も「みんなの大学校」で,障がい当事者と支援者が参加する講義を担当していますが,そこでの話は,やはり基本的には一定程度の知的な理解力を持った方たちと一緒に,そもそも障がいって何なんだろう,支援てなんだろう,ということから議論しながら考えていく場になっています。けれども,当然障がいの具体的な内容はさまざまで,ことばができない知的障がいで身体的にも重度でベッドの上の生活をし,また病気を抱えているなど,いろいろな条件をもって生きていらっしゃいますので,私の講義に出席可能でそこで議論される内容自体についての「まなび」を得られる方は限られます。

それに対してこの文科省の委託事業として採択されているプロジェクトが対象とするのはあらゆるタイプの障がい者で,「誰一人とりこぼさない」という,現在の障がい者支援に関する国際的に合意されてきている理念を背景に進められるものです。

でも,素朴に考えて「知的理解力が極めて低い」と見なされている重度障がい者の方の「まなび」っていったいなんなのでしょう?

通常「学習」というとイメージが湧きやすい「学校教育」の「まなび」から考えたら,およそその意味が見えてこないでしょう。少し幅を広げて華道とかお料理,お習字などの「お稽古事」みたいな「まなび」を考えても,やはり「寝たきりでことばもない障がい者」はその枠には入りにくそうです。

こういった「まなび」は,いずれも「教える側」がいて,その教える側が準備した「教育の内容」があって,その内容を「学ぶ側」が「身に着ける」ことを指していると思います。けれども,そういう枠で考える限り,こういう事業で模索する「まなび」は入りきらないということになります。

少し視点を変えて,心理学で「学習」というときの古典的な考え方を見てみます。その古典的な行動主義的定義は「学習とは,経験による比較的永続的な行動の変容」というもので,「経験による」というのは,つまり遺伝的にあらかじめプログラミングされているのではなく,経験すれば身につくし,しなければ身につかないようなものであることを意味します。

「比較的永続的」というのは,たとえばお酒を飲んで酔っ払えばその時はふらついたりして行動が変わりますが,醒めれば元に戻るとか,たくさん走ると息が荒くなったり,疲れて足の動きが鈍くなったりとこれも行動が変わりますが,休めばまた元に戻るといったような「一時的な変化」ではなく,ある程度安定的な行動のパターンとして見につくような変化であることを意味します。

心理学(行動主義)がこういう学習の考え方をしたのはある意味で画期的なことで,学習をこう見ることで「新しいものを身につけること」を,教育する人間に限らず,だれからも教えられなくても,経験を通していろいろできるようになる多くの動物にまで広げて考えることができるようになりました。人間の教育はそういう学習の一種で,その仕組みを「意図的に」利用して「おしえ」て「学ばせる」もの,という理解になります。

ですから猫が飼い主が帰ってくる足音を聞いて玄関に出迎えに来る,といった,もともとはなかった行動も,それを「学習」として理解することができるようになりますし,ヒヨコが餌のついばみ方を段々上手になっていくのも「学習」です。金魚に餌をやろうと水面上に手を伸ばすと寄ってくるのも「学習」。つまり「誰かに教えられなくても自分で新しい行動を身に着けていく」ことまでを含めて「まなび」になります。

そこまで広げて考えると,たとえば寝たきりでことばもない障がい者が,介護者の「あーん」という声掛けで口を開いて待つ,といったことができるようになるのも「おしえ」と「まなび」の一つだということになります。

 

けれどもそういう「行動の変化」だけでここでいう「生涯学習」として考えていいかと言うと,なんか抵抗感がないでしょうか?私は違和感があります。そのような変化は,今までできなかったことを出来るようにする,という意味で新しい「能力」が獲得されたことを意味していますし,そのことでその人の生活にもプラスの変化が起こるので,大事な「まなび」のひとつであることは間違いないのですが,それだけだと大事なものが抜け落ちていると思えるのです。生きることがテクニックの獲得という問題に切り縮められてしまっているような印象を持ってしまいます。

 

今回のこのプロジェクトは,その「大事なもの」への挑戦でもあるということを,今回の連携協議会&報告会で感じました。

報告された活動は主に三つです。ひとつは重度障がい者向け講義「おんがくでつながる」,ふたつめは遠隔講義「メディア論の展開」,みっつめは「当事者との企画と実践:オープンキャンパス」の開催で,それに加えて指定管理業者(サントリーパブリシティサービス)との研究開発が報告されました。

 

「おんがくでつながる」は,毎回いろいろなジャンル(演歌・ポップ・津軽三味線などなど)のプロの音楽家を講師にして音楽を学ぶというより演奏も含めて楽しむ形で授業が進んでいきます。

「メディア論」の展開は,もともとジャーナリストとして国際的に活躍していた引地さんが,そういう現場の体験も踏まえて,情報弱者になりやすいメディアの問題を考えたり,参加者でそれぞれが暮らす地域についての問題を出し合ってクイズの正解を競い合う形でコミュニケーションの中の情報の共有の問題を体験的に学んだりしています。

「当事者との企画と実践」は図のようなコンサートの実施ですが,これは「おんがくでつながる」に参加された障がい者から集まってきた言葉を組み合わせて歌詞として,プロが作曲をしてみんなで演奏するという企画です。

私が特に大事なものを感じたのは音楽に関する1番目と3番目の試みでした。この授業には全国の障がい者の学びの場に集まる当事者や,自宅からzoomで,重度の身体障がいや知的障害を持つ当事者,精神・発達障がい者などが参加し,またコンサートにもzoomのほか,会場で参加する人が加わるという形で進むのですが,重度の人も含め,ほんとにノリがいいのだそうです。

実際,今回のzoomでの会議には私たちのほか,重度の障がい当事者やその支援者なども参加されていたのですが,当時の動画が画面で流れたりすると,重い知的障がいを持つ寝たきりの障がい当事者の方がほんとにうれしそうに体をゆらし,笑顔いっぱいになるんです。その姿を見て私も自然に笑顔になりました。

また,肩が少し動くだけの重度身体障がいの方(以前ここでも紹介した岩村和斗さん)は,お父さんが作った手作りの「ベル」で演奏が始まる合図を肩を動かして鳴らしたり,それぞれの人が自分のできることを使い,それをまた支援者がうまく活かし,みんなで演奏の場を作り上げる工夫をされています。

 

では一体ここではどんな「まなび」が成立しているのでしょうか。私は会議で三つのことを考えて発言しました。

ひとつはzoomなどを用いて,普段全国に散らばり,また家庭の中で孤立している障がい当事者を「つなぐ」ことで,お互いにお互いの姿を見ながら刺激し合う,ということが起こっています。新しいつながりの中で新しい刺激を受け,新しい体験の中で参加者が生き生きと変化していくのです。

障がい者はいろいろな理由で,その生活の場,活動の場が限られるということが起こりがちです。ですから,たとえば寝たきりの人であれば通常生活している自分の部屋の空間以外はなかなか体験できません。他者との交流の機会もとても限られてしまいます。その「部屋の中」という空間が,ネットによって全国につながるんです。

その結果二つ目に,それぞれの人の世界が「ひろがる」ということが起こっています。私だけの世界,あるいはせいぜいが支援者との世界の中で生きていた人が,「つながる」ことによって,お互いの世界がどんどんひろがるわけです。その人にとって生きる世界が「ひろがる」ということはそれ自体が大変に大きな成長です。

そういうつながりの中で,たとえ寝たきりの人であっても,知的にはできること(能力)に限界があっても,それぞれの人がそれぞれの仕方で主体的に参加し,その喜びを共有しています。そうやってみんなで作り上げる活動を「うみだしている」。これが三つ目です。

ひとびとが「つながる」ことによって,さまざまな違いを持つ多様な人々の持つそれぞれの世界がお互いに刺激し合って「ひろがり」,そこから共に新しい活動とその活動の世界が「うみだされる」。これがこのような試みの中で生じている,本当の意味で創造的で共同的な「まなび」の最も基本的な形ではないでしょうか。

 

ではここでそのような「まなび」を生み出している力は何でしょうか?そのことについて私は次のようなことを考えました。

ここで障がい者や支援者をつないでいるのは「音楽」という活動です。音楽は,言葉で作られる世界とはかなり違う世界を生み出します。言葉でも「詩」の言葉は音楽に比較的近い世界を生み出しますが,その一番の基本要素は「声(音)」の響きと「リズム」です。「声」は人の体と感情を揺さぶります。「リズム」は人に伝播してお互いの体と感情をつないでいきます。人と人が「声」によって自分の体と感情の状態を表現し,その表現が他者と共鳴して同じ「リズム」を共有することでつながりを生み出す。そういう力を持つのが音楽であるわけです。音楽が言葉の壁,国境の壁を超えるというのも当然のことです。そして,この試みでも明らかなように,それは障がいの有無という壁もまたすっと超えた世界を生み出すわけです。

発達心理学者(発生的認識論者)のピアジェは,生命活動の基本を「リズム」に置くという議論を比較的若い頃(中期)にやっています。心臓は鼓動をリズミカルに繰り返し,呼吸もそうです。リズムが崩れるのは状態が悪い時で,リズムが停まるのは死んだときです。脳の神経活動もリズムが大事です。身体の動きも各部分のリズムがうまく合わずにバラバラでは目的にあった行動がとれません。生物の生理周期の多くが月の運行(またはそれによって引き起こされる潮の満ち引き)などに影響されています。それは個体の中だけではなく,個体間でも同じです。サンゴが一タイミングを合わせて一斉に排卵できるのは月の運行が関係し,そのリズムを共有することでサンゴの生殖活動が成り立ちます。タンチョウヅルの美しい婚姻ダンスもお互いのリズムが一致して生み出されます。人と人が「意気投合」できるのは「呼吸が合う」関係です。

お祭りは人と人をつなぎますが,そこに欠かせないのは音楽です。人と人を結ぶ宗教でも音楽などのリズムが欠かせない要素になっています。そして人とうまくコミュニケーションが成り立たないことで苦しむ発達障がい者が,音楽を通して人とつながることで救われることも少なくありません。

この問題は,人のコミュニケーションを研究的な視点で考える上でも欠かせません。

まもなく大内さんと私と渡辺さんが編者となった本「自閉症を語りなおす:当事者・支援者・研究者の対話」(新曜社)が出版されるのですが,執筆者の一人として参加してくださった人類学の高田明さん(京大アフリカ研)は,障がいを文化の問題として見る視点から,あらためてこれまでの障がい理解を見直し,「専門的な知よりも前からあった感覚、今まさに生きている人々の生活の文脈や人生の統合性を見失」わないことが大事であると述べられています(第六章「相互理解と文化」)。

そうなんだと思います。音楽もまさにそのような「専門的な知よりも前からあった感覚」に足場を持って,人をつなぐ力を持つものなのです。その意味で,「音楽」を通してまなびの場を模索するということは,人が人として生きる原点に立ち戻ることでもあります。

 

このプロジェクトには,サントリーパブリシティサービス(SPS)のみなさんも参加されています。サントリーが設立し,文化活動を通した社会貢献を行う組織で,北は札幌コンサートホールから東京のサントリーホール,文化村オーチャードホール,西は山口県の文化ホールまで,さまざまな文化施設の運営に関わってこられていますが,さらにそういう文化活動を障がい者を含んだ共同的な活動として作り上げる試みに着手し始められています。

そのSPSから代表で会議に参加された青木さんが,サントリーの企業理念の中心に「水」があるという話をされました。水は人に欠かせないもので,誰もが求めるものだが,決まった形はなく,入れ物に合わせて自在に形を変え,人の役に立つ。そんな企業であることを大事にされているのだそうです。その視点が,おそらく障がい者を含んだ共同的な活動の柔軟な模索につながるのでしょう。水は命の源です。水がある時,そこに生命が生まれます。生きることの一番の根っこに水があります。その命の源を大事にする視点から,文化を支援する活動が生まれているのですね。

 

障がいを考えるということ,それは現代の多様性を大事にする共生社会という理念にとっても不可欠な要素の一つです。そういう視点から「まなび」を考え,「まなび」と「障がい」,そして「共生」を考えるとき,命の源である「水」と命の基本である「リズム」に立ち戻り,ともすれば孤立して小さな世界に閉じこもりがちになる障がい者を「つなぎ」,お互いを「ひらき」,ともに新しい世界の中での生き方を一緒に「うみだす」という,人が生きることの原点が今回の会議で垣間見えたように思いました。

 

 

RSS

コメント欄

 投稿はありません