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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2023.08.10

自閉的意味の世界は国境を超える

発達障がいを理解する視点としてここで重視し続けてきているのは「当事者の視点」です。では「当事者の視点」とは何かというと,「当事者の主観からどう事態(状況)が見えているか」ということです。

心理学では基本的な考え方の一つですが,人は単に物理的に反応するのではなくて,「理解に基づいて(主体的に)行動する」動物です。たとえば牧場でのんびり草をはむ牛を見て「おいしそうなお肉の塊」と理解する人は珍しいでしょうし,まさか食いつく人もいないでしょう。でもステーキとしてお皿の上に出されると「おいしそうなお肉」と理解し,おいしくいただくはずです。

「豚肉」は私たちはおいしくいただく食べ物と考える人が多いですが,イスラムでは決して口にしてはならないもので食べてよい物とは理解されません。

そのものをどう理解するかによって人の行動が変わります。それはそのもの自体が持っている「客観的」な性質の問題ではなくて,それをどう「意味づけるか」という「主観的」な性質の問題です。つまり,「その人がそのものをどう理解しているか,どのように意味を感じているか」ということが,その人の行動にとって決定的な意味を持つ。その意味の構図を一般的に明らかにすることが「解釈」という作業で,実証的心理学的の最も基本的な出発点ですし,さらにそれを個々人の意味の世界の問題に深めた形で質的心理学なども展開しています。

心理学が物理学と決定的にことなるのが,この「主観による解釈」というステップを入れるかどうかで,どれほど物理学が発展しても,今の物理学の延長には決して心理学は吸収されえません(観察者による相対性の問題で解決できる範囲は超えている)。これは原理的な問題で,たとえていえば有理数の世界だけをいくら分析しても無理数の世界はわからないのと似ています。扱っている世界の性格(それを理解する側の理解の視点の設定の仕方)がそもそもそ異なっているのです。

 

このあたりについて,最近浜田寿美男さんは今開催中の教育心理学会へのシンポジウムでの発言要旨に「因果と理由」という言い方で論じ始められています。私自身の理解が入った説明になりますが,「因果」とは自然科学や工学のように「対象」の「客観的」な構造を分析し,その対象にとっての「主観的な意味」は扱わない理解の仕方です。

これに対して「理由」というのは,「その人自身がどんな思いでそれをしているのか」という,相手の「主観的な意味」の世界を解明しようとする理解の仕方です。

「あの人は何でほんとは食べちゃいけないこのパンを食べたんだろう?」と問われて「血糖値が下がったから」と答えれば「因果」による説明になるでしょうし,「朝から何にも食べてなくて,おなかがすいてたんだよね。それでもともと彼はパンが好きな人だし,このパンは誰でも食べていいと思い込んでたからだと思う。ほんとは勘違いなんだけどね」と答えれば「理由」による説明になるでしょう。

そのように理解が異なると,「食べさせない」ための対処の仕方が変わってきます。「因果」で単純に考えれば「血糖値を上げる」ために糖を体に入れる方法を考えるかもしれません。その場合本人がどう思うかはとりあえず二の次になります。

でも「理由」から考えれば,どうやって相手の理解の仕方を変えることができるのか,相手の「主観的な理解」に働きかけることになるでしょう。誤解があれば誤解を解く,理解していないことがあれば説明する,相手の主観的な欲求を満たすべきところがあれば満たしてあげる…などなどで,いずれも「その人の主体性を大事にする」ことになります。

 

当事者研究が追及し,また自閉症の問題を中心として当事者との対話の中でディスコミュニケーション論の視点から私たちが解明してきたことは,実際の支援で最も重要なポイントはこの「理由(意味)」の世界が定型発達者と発達障がい者で著しくずれてしまうことが多いこと,しかもそのズレをお互いに気づきにくいという事実を重視することでした。

そのズレがお互いのコミュニケーションの深刻な葛藤を生み出し,また立場の弱いものの側に無理解に基づく配慮に欠ける扱いや,場合によって虐待が行われ,二次障がいやカサンドラ症候群を生んだりするわけです。

「意味の世界」は日常生活の中では比較的周囲の人たちと共有されていて,そのためにそれは「普通のこと」「誰もがそう見えること」と理解されています。ところがその「意味の世界」に気づかれないズレがあると,相手のふるまいが全くおかしなものと見えてくるわけです。その人の「意味の世界」が「理解不能」で,話し合っても全然通じ合えないので,「精神障がい」とか「心理的障がい」という形で「因果」的に理解するようになり,その人がどういう思いでそう振る舞っているのか,についての「意味の理解」よりも「外側から見た形式的特徴」による理解や外的な操作(薬物投与や外的な行動統制)に傾きがちになります。

もちろん「意味の世界」もまた脳を含む身体という「因果の世界」を足場に持っていて,そこから自由ではありませんから「因果」の理解が不要ということは決してないのですが,これも私たちがたとえばみんなの大学校での障がい当事者との対話的な授業を積み重ねたりする中で,お互いの意味の世界をお互いに理解し合う関係を作っていくことによって,実際に大きな変化が起こることが繰り返し確かめられますし,発達障がい児の支援の現場でも,そういう例をいくらでも体験します。

そんな風に「異なる意味の世界」を生きるもの同士がお互いのふるまいを理解できずに葛藤状態に陥るというのは「文化的葛藤」と全く同じ構造になっています。そしてそこで「お互いの主観的な意味世界」に注意を向けていき,少しずつ相手の見方が理解され始めることによって,関係は実際に変化していくわけです。このこともすでに異文化間の対話的相互理解研究で繰り返し検証されてきていることですし(もちろん「完全な理解」はありえないことが前提です),そしてそれと同じことが発達障がいという問題についても言えるのだということについて,ほぼ確信できるところに私たちは来ています。

 

さて,そういう対話的な理解の中で,私の中で「自閉的な人がどうしてそのようにふるまうのか」について理解が進み,実際に当事者の方たちに「それはこういうことですか?」と尋ねると「その通りです」と言っていただけるようなものが少しずつ積み重なってきています。たとえば「(定型が)頼みごとをしたときに,ものすごく<嫌な顔>をする理由」とか「(定型から)どうしてあなたはこういうことをするんですか!」と真剣に問い詰められて「私になんて答えてほしいの?と困ったように問い返す理由」とかです。自閉=定型間ではあるあるの話だと思いますが,当然それで両者の関係が良くなることはありません。葛藤の原因の一つです。

今回中国でやはり家族に自閉系の方を抱えた方とお話しする機会がありました。夫が一流の工学技術者で,その世界では大活躍をされている人ですが,そのふるまい方の特徴は私から見ても自閉系の方と確信できます。で,その方に上のように私が理解してきた自閉系の方の振る舞い方の「その人にとっての意味」をお話ししていくと,もう「目からうろこ」という感じで次々に場面が思い出され,「そういうことだったんですね」と納得されるのです。

また,周囲に理解されないことで苦しんでいる自閉的な子どもの振る舞い方について,その理由と共にお話ししていくと,今はもうイギリスの有名大学に留学して最先端の脳科学を学び始められているそのお子さんについて,「あの子も自閉だったんですね!」と,これもほんとに納得されていました。

中国と日本では,人間関係の作り方,「意味の世界」の共有のされ方が驚くほど異なります。その意味で通常の使われ方での「文化差」は著しい(ある面では日本と西洋の差よりはるかに大きい)のですが,その大きな「国の間の文化差」を超えて,自閉と定型の間の「文化差」の在り方は共通しているのだ,ということを今回私は確信することになりました。

「因果」による理解に偏るのではなく,「理由(意味)」による理解を模索していくこと,つまり「当事者視点を大事にした対話的な関係調整としての支援」という在り方は,国境を超えて重要性をこれから持っていくだろうということを感じられたのは,今回の科研研究での中国出張の最大の収穫の一つといえるかもしれません。

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