2023.10.19
「自閉症を語りなおす」書評
「自閉症を語りなおす:当事者・支援者・研究者の対話」の書評が図書新聞に掲載されました。立命館大の髙木美歩さんが書いてくださったもので,その最後はこんな言葉で締めくくられています。
コミュニケーションがうまくいかないとき,まず相手に尋ねてみよう,対話してみようという本書の主張は実に真っ当である。この本はASDを主題に書かれているが,多様性が求められている今日の社会においては誰もが身に着けておきたい視点である。簡単なように思われるそれをいかに実践するか,それがいかに難しいかを丁寧に記述した本書は,だれかとのより良いコミュニケーションを希求する人の一助になり得るだろう。
この本を作った意図をそのまま真正面から受け止めてくださったように感じ,とても勇気づけられました。
また,それ以外の内容紹介についても,とてもうまくポイントを説明していただいていて,私たちの議論が別に人の目を惹くために奇異をてらって行われているものではなく,ある意味ほんとに普通のことを言っているにすぎないので,素朴に読んでいただければ素直に理解していただけるのだということも感じて,肩の力が抜けるようでうれしくもありました。
逆に言うと,今の障がい理解がそういう素朴な目で人と人との関係に生み出される困難の問題としてとらえることがむつかしい状態になってしまっている,ということも言えるのかもしれません。髙木さんはこうも書かれています。
逆SSTはASD者が出題者として日ごろ理解されにくい自身の体験を語り,参加者はその人が「なぜそうしたのか」を本人に質問しつつ推理していく,対話的調整である。そこで明かされる理由は思いもよらない,専門用語の枠にはとても収まらないものが多い。
「障がい」が生み出す困難を理解してそれに対処するには,「障がい」を前提にしない日常のやりかたではうまくいかないことがたくさんあります。だから特別の理解の仕方ややりかたを考えるしかない。その時に日常のことばとは異なった「専門用語」によって理解することがひとつの助けになることは確実にありますし,その特別な理解の仕方自体の性格を考えるには,かなり抽象的な議論が必要になることもあります。
たとえば私たちは自閉症理解のありかたをもう一度考え直すために「説明・解釈から調整・共生へ:対話的相互理解実践にむけた自閉症をめぐる現象学・当事者視点の理論的検討」という論文を書きましたけれど,これなどはある程度専門的な知識やある程度の哲学的な思考の仕方が身についていないとすっとは理解しにくいだろうと思います。
でも私の場合はそういう抽象的な論を立てるのも,別にその論自体が重要だというわけでもなく,ただいわゆる「高度に専門的」なものとして作られてきている障がい理解が,私の目から見てとても偏ったもの,狭い世界しか見ていないものに思えるので,もっと素朴に「障がいが生み出す困難」それ自体にやわらかく広く目を向けて考えていきましょうよ,ということを言うための手段の一つに過ぎない,という面があります。(一面で私が抽象的な議論が好きだからという面も否定できませんが)
専門的な議論はどうしても「厳密性」を求められるので,往々にしてそこで使われる概念(ことば)は本当に対象の小さな一部分だけを切り取って論ずるためのものになってしまうことが多く,その結果その概念(ことば)を駆使して考えようとする専門家の視野はすごく狭くなってしまいがちです。そうやって作られた「専門的」で「厳密」な,しかも「小さな世界」しか見ていない概念(ことば)で障がいを定義し,人をその概念(ことば)で理解して対処しようとすれば,そうされた人は当然「小さな世界」に押し込められて,その人が本来持っている豊かな世界が切り捨てられてしまうことにもなる訳です。
そうなってしまうと,「障がい」に苦しむ人の世界がどんどん貧しいものになってしまいます。そういう狭い概念(ことば)だけを手掛かりに行う支援は本来いろんな可能性を持つ相手との関係を貧しくしてしまいます。
そう私は感じるので,研修や講演などではできるだけ具体的な事例を使いながら,狭い「専門用語」になるべくたよらずに困難を理解し,その困難を緩和するための模索の仕方を考えるようにしています。これも支援をものすごく特別なこととして構えて考えるのではなく,「専門家」が作ってきた特別の見方も参考にしながら,でも改めて素朴にその困難に向き合う人々の間の葛藤を調整する模索として支援を考えたいからです。
幸いそういう形で私が話をすると,「わかりやすい」と言って下さる障がい児の保護者,支援者の方も少なくありません。そして今回の書評をいただいて,この障がいの問題を考えている「専門家」の髙木さんにもほんとに素直にこの本の意図を受け止めていただけた,ということですごくよかったと思いました。
私は法と心理学の分野で供述分析という世界にも足を突っ込んでいるのですが,極端に高度に専門化された「法律」を駆使した「裁判」の世界では,被疑者の語りが私たちから見てびっくりするような,およそ「素朴な常識」を外れた理解のされ方をすることがあります。今は袴田事件が大きな話題となっていますが,そういう冤罪が問題になる事件では特にそうです。(興味のある方は「供述分析と心理学的合理性」という文章に,やくざの親分の供述について東京高裁の裁判官が不思議としか言いようのない判断をしていることを例に書いてみたことがありますので,それなどもご覧ください)
専門的なことば(概念や理解の仕方)は,話をできるだけ厳密にするために,往々にして議論の範囲をとても狭くしてしまい,そのことで本来豊かさを持った問題の一面しかとらえられなくなってしまいます。でもその専門的なことば(概念や理解の仕方)が社会の中で「権威」をもって人々に押し付けられたとき,そのことばの貧しさがひとびとを逆に苦しめていくことがある。
そういう貧しさを持った「専門」のことばも,問題の一つの面を見るものとして取り込みながら,もっと豊かなかかわりの中で豊かな共生の関係を作る支援の仕方をこれからも模索していきたいと思いますし,それは少しずつではあっても一歩一歩実現できるものだろうと,今回の書評を拝見していてちょっと思ったことでした。
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- 「笑顔が出てくること」がなぜ支援で大事なのか?
- ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
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