2019.08.27
当事者の自助グループと「専門家」の役割
※以下は発達支援研究所の旧HPに掲載したブログを転載したものです※
先日,仙台のこどもサポート教室に招かれて,保護者の集まりとして始めたママカフェにファシリテーターとして参加してきました。参加されたのはみなさん発達障がいのお子さんを子育て中のお母さんでした。おなじ困難を抱える当事者の自助グループという感じですね。
時間も割合短かったので,お一人ずつご自分の子育ての苦労などについて自己紹介を兼ねて順にお話していただきました。中には友達同士声を掛け合って来られた方もありましたが,だいたいはみなさん初めての顔合わせという感じでした。
過去に障がい児通園施設で発達相談をしていた時に,障がい児を抱えて大きな不安を抱え,悩んでいる保護者(特にお母さん)に対して,ある意味で一番支えになるのは,同じ困難を抱えたお母さん同士のつながりではないかと感じたことがあります。
発達心理学の専門家が療育に携わる場合は,自分が持っている子どもの発達についての一般的な道筋や発達の仕組みに関する知識を利用しながら,子どもに対する支援の仕方について「専門家」として「客観的」にアドバイスを行うことが仕事です。「子どもや保護者の思い」に「寄り添い」ながらアドバイスを行う,ということは基本的な姿勢として大事だとしても,そこから「客観的」な視点を外すことはできません。
専門家が困難を抱えた子どもや保護者などの「当事者」とは違う役割を果たせるのは,この「客観的」な姿勢を保つということができるからです。それは確かにひとつの長所なのですが,当然その長所がそのまま短所にもなります。
子どもも保護者も,当事者はその人が抱えた困難を,ずっと一緒に生きていかなければなりません。誰も自分を捨てることはできませんから,その生き方の中に,その人なりの困難は切り離せない形で組み込まれていくことになります。(もちろんいわゆる障がい者でなくても,すべての人がその人なりの困難を抱えて生きている点では同じですが,今は障がいに特有の困難に焦点を当てて考えます)
専門家もまた自分の私的生活の中では同じ問題を抱える場合もありますが,それがあるから専門家である,ということではありません。ある限られた時間や空間でだけ,専門家はその困難を抱えた当事者と向き合うという仕組みからは離れられません。そこが「家族」という当事者の立場とは決定的に異なる部分です。
当事者にとって専門家の知識や技術などはもちろん役に立つ部分があるわけで,だからこそわざわざ時間や費用をかけても専門家に援助を求めるわけですが,そこで求められる援助はあくまえも「当事者ではない」という立場からのものに限られるわけです。
当然,そこで当事者には専門家には解決のしようがない,当事者だからこそ抱える困難が残ります。そこの部分は専門家にはどうやってもてが届かない領域になるわけです。
まさにその部分について,「同じ困難を抱えたお母さん同士のつながり」あるいは「当事者同士のつながり」が生きてくることになります。
もちろん,当事者同士と言えども,違う家族同士の場合,相手の困難を自分が引き受けてしまうことはお互いに無理です。相手の抱えた悩みを自分が変わって抱えてあげることはできません。けれども「同じ悩みを抱えている」ということをお互いに確認することだけで,人は支えられることがあるのですね。「ああ,こういうことで悩んでいるのは自分だけじゃないんだ」と知ることが,人をどれほど支えるかは,経験者ならばよく分かることだと思います。
ママカフェはそんな場の一つになるわけです。実際,その第一回のママカフェに参加されたお母さんたちの感想は,多くが「他のお母さんが同じような問題を抱えている話を聞いて,とても気持ちが支えられた」ということを書きこまれていました。そして終了後も実際に用事のある方を除いてみなさんその場に残り続け,お互いに話を続けていらっしゃいました。
京大の防災研にいる矢守克也さんは,神戸大震災の後,心理学者としてずっと被災者遺族の「自助組織」に関わってこられました。以前日本質的心理学会のシンポジウムで,矢守さんやノンフィクション作家の柳田邦男さんたちがご自分の喪失体験やあるいは喪失体験を持つ遺族の自助組織などでの経験から議論をされる場があり,私はそこにコメンテーターとして参加させていただいたことがあります。そこで聞いた矢守さんの話がとても印象的でした。
遺族の皆さんは,なんの前触れもなく,突然に大事な家族を失う,という厳しい喪失の体験をされています。そういう共通の体験をした当事者同士が自助会でお互いの体験を語り合うことでなんとか支えあえる。なぜそういうことが起こるか,というと,ちょっと逆説的ですが,「自分が抱えたこの苦しみは,他人には決してわからない」という思いのゆえだというのです。
「自分にしかわからない」のだとすれば,どうして語り合うことで支えられるのか,というと,「自分にしかわからない辛い体験を持っている」という点で,お互いに「同じだ」ということを感じる。そこで共感して支えられるというわけです。決して癒えることのない深い思いを,相手が代わりに背負ってくれることはできない。それは自分で抱えていくしかないものです。でもそうやって苦しんでいるのは自分一人ではない,ということを知ることが,支えになる。
おなじ苦しみを知っているから,そしてそれは自分にしか抱えられないものであることを知っているから,その限界を抱えながら助け合うということも可能になっていく。そこには「自分がこの人を救ってあげる」とか「この人に自分は依存する」というような関係はありません。それぞれが自分の人生に責任をもって生きる中で,相手に共感性をもって,自分ができる範囲のことを手助けしあう可能性がそこから生まれてくるわけです。
この点で,当事者ではない専門家ができることはありません。可能なのは,せいぜいがそのような当事者間のつながりにきっかけを提供し,またお互いに話しやすい雰囲気を作っていき,コミュニケーションを促進するファシリテーターの役割だけです。そしてそういうスタンスが,実は専門的な知識や技能を活かす発達相談も含め,発達支援全体に必要な,当事者に対する専門家の基本的な姿勢になるのではないか,そんなふうに私は考えています。
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