2019.08.29
文化差としての発達障がい
こんなことがありました。ニューヨークのバス停に no standing という小さな表示が乗っていたんですが、意味がわからなくて混乱したという話です。
まずは standing の意味が私の英語力では「立っている」とか、「止まっている」位しか思い付きません。そして no がつくわけだから「ダメだよ」と。そうすると「立っちゃダメ」?バス停なのに?椅子もないけど?と、訳がわかりません。一時的に運休してるから、「ここで待っててもダメだよ」という意味?でもそれにしてはかなりしっかりした看板です。
実はこれ、どうやら駐停車禁止の表示らしいんです。私はバス停の標識の上にあったので当然にそれは乗客向けの表示と思い込んでいました。それで上のような解釈になってわけがわからなくなったわけですが、実際はそれは車に対する標識だったのですね。「止まっている」は、「車が」だったのです。そして気がつくと、バス停に限らず、いろんな所にこの表示がありました。
知らない土地に行くと、よくそういう経験をします。
なぜ私はそういう「誤解」をして混乱したのでしょうか?英語力がないから、というのは簡単な答えですが、ではそこで言う英語力って何なのかが気になるのです。
実際、no standing で辞書をひけば駐停車禁止の意味が出てきます。では、仮にそのことを辞書で知っていたら迷わなかったでしょうか?多分迷ったと思います。なぜなら何しろバス停の看板に付いていたのですから、それはそこを利用する人に向けたものと思い込んでいたからです。
実際日本でバス停の看板に駐停車禁止の標識がついているかと言うと、それはまずないでしょう。理屈から言っても交通標識は道路行政に関することで、関連するお役所が自分の責任でやることで、バス会社の看板に乗せるということがピンと来ません。
そう考えると、あの事がわからなかったのは、単なる「単語力」の問題ではなくて、その言葉がどういう文脈に置かれているのか、ということの理解力、もう少し縮めて言うと「文脈理解力」の問題だったことになりそうです。
ということに気づいて、それがすぐにアスペルガーの方たちに結び付きました。
榊原さんのインタビューに、アスペルガー当事者であるニキリンコさんに聞いたエピソードがいくつか紹介されています。
例えばホテルのラウンジで座ったらそこに「あなたの声をお聞かせください」と書かれていて、それでどうしようかと悩まれたのだそうです。ニキさんがその場で何か声を出さなければいけないのか、とまどったということです。
また、電車を待つときにホームに「2列に並んでお待ちください」と書いてあって、でもその時一人しかいなかったのでどうしようかと困ったとか、子どものときにお母さんに切符を渡されて「しっかり持っていなさい。落としたらもう乗れなくなるよ」と言われたのですが、その後うっかり手から落としてしまい、すぐに拾い上げたのですが、もうこれで電車に乗れなくなってしまったと思い込んだり。
これらは言葉を文字通りに受け取って、それで別の意味が表されていることに気づきにくいためで、自閉系の方の特徴のひとつとよく言われることです。
つまり、言葉にはいくつもの意味がある(多義的)のが普通なので、私たちは文脈を読んで、どの意味で使われているのかを瞬時に判断していきます。それで、どの文脈なのかがわからないと混乱します。
例えば相手の人が「お前馬鹿なんじゃない?」と言ったときも、文脈によっては本当に強く見下されたことかもしれませんし、軽いからかいかもしれないし、場合によっては愛おしさの表現かもしれません。そこが読めないと戸惑いますし、読み違うと関係が危うくなりかねません。
自閉系の方が困惑しやすいのは、単に言葉の意味を知らないと言うことではなく、「どの文脈の言葉なのか」の読みが難しいということが大きいのだと考えられます。
冒頭の話はそれと似たようなことを私が体験したのだ、ということになります。つまり、適切な文脈の選び方を知っている人から見ると、何でそんなことが分からないのか、と不思議に思う状態に私があったわけです。
その意味で、私は「空気(これも文脈です)を読めない」とか、「場違いなことをする」等と非難されやすい自閉系の方と同じ状態にあったわけですね。
私がそうなったのは、もちろんニューヨークにいたからで、そこで常識となっている文脈の読み方が日本の文脈と違ったから、つまりは異文化にあったからです。
自閉系の方が自分のことを異星人に例えたりするのも、周囲の定型的な人たちの生き方の文脈があまりにも謎だからでしょう。その意味では、私の体験とかなり通じるところがあることになります。
ここで大事だと思えるのは、自閉系の方は文脈が読めないのではなく、異なる文脈に生きているからという視点で考えてみることです。異なる文脈に生きているから、お互いに理解しにくい。そして多数派の定型から見ると、自閉系の方が単純に「間違っている」と思ってしまい、自閉系の方自身の持つ文脈に気づかないことになりやすい。
そこにお互いの衝突が発生します。
発達障がいの問題を、文化差の問題としても考えなければならないと私が強く思うのは、本当の意味での「共生」を考えるなら、お互いの立場、お互いの文脈を尊重することが前提として必要で、そのためにそういう見方もとても重要だと思うからです。
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
- 大事なのは「そうなる過程」
- 今年もよろしくお願いします
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