2019.08.26
「ちょっかい」としての支援
「相当に」勉強の苦手な中3の男の子たちに数学を教えたことがあります。
どのくらい苦手かというと、「3-5=?」と聞くと、明るく「8!」と答えるくらいにです(笑)。中3でもう受験という年なんですけど……。
それを聞いてのけぞる思いだった私は、「え!?、おまえさ、3円持ってて5円借金したら、儲かってるわけ?」と突っ込みを入れました。その子はしばし「うーん」と考えた後、「あっ」という感じで笑顔になり、「違う。2円借金!」と正解しました。
しばらくしてまた同じような問題を出すと、また同じような間違いをします。そのたび私はのけぞって「え!?、おまえさ、○円持ってて×円借金したら、………」の繰り返しです。
どのくらいだったか正確には覚えていませんが、月の単位でこのやりとりをしつこく続けていく中で、やがて間違えなくなり、いちいち儲けと借金ではなく、普通に計算式で聞いても大丈夫になりました。
「3-5=?」というのは抽象的な質問なのに対して、「3円持ってて5円借金」というのは、具体的なイメージがわいて、しかもリアルです。「-5」を具体的にイメージしろ、と言われてもできませんが、「借金」なら感覚的にわかる、そんな感じですね。
問題を出してわかりにくい時は、それをできるだけ具体的なイメージに置き換えて考えさせてみる、というのは多くの場面で有効なやり方です。発達心理学的に言っても「具体から抽象へ」というのはごく普遍的な発達の方向なわけですし、理にかなっています。
だから足し算を覚えるときも、まずはおはじきで数えたり、指で数えたり、そういう具体物を使って理解をさせていきます。それができてだんだんとおはじきや指を使わずに計算できるようになっていきます。その抽象性のレベルでいえば、この子たちは指を使うところまで具体的なところに降りる必要はありませんでしたが、「負の数」といった抽象レベルはまだ無理だったのですね。
そこを具体的なイメージに置き換えることで問題を解けるようになりました。さらにその具体的なやり方を繰り返しているうちに、面白いものでだんだんとそのひとつひとつの計算の背後にある、一般的な(つまり抽象的な)規則のようなものを理解するようになる。そうすると、儲けと借金でなく、抽象的な数字の扱いで負の計算ができるようになるわけです。
むつかしい理論的な話でも、例を出されるとけっこうわかる、というのも同じ理屈です。勘のいいひとは、少ない例を聞いてその背後にある理屈に早く気が付きますし(1を聞いて10を知るというのもそういうことでしょうか)、勘の悪い人も時間はかかるけれど同じように具体的な例からその背後の理屈に気づくようになる。そういう早い遅いの個人差はあるけれど、逆に言えばじっくりとそのプロセスを積み重ねれば、多くの人は自ずと次に進んでいくわけですね。
ただ、この子たちはそういうじっくりとしたプロセスを、自分のペースで積み重ねることがなかなか許されない状況に生きているので、どうしても「結果」を出すところまでいかず、とにかく劣等感いっぱい!という感じの子たちでした。
こういう時、発達心理学をやっているといろんな意味で有利です。なぜなら発達心理学では「できる」ことより「間違える」ことの方が興味深いのです。間違いをみつめることで、「なぜ間違わないのか」、その仕組みがわかってきます。ピアジェなども子どもの「間違い方」の徹底した分析から、子どもの思考の仕組みを明らかにし、そして「間違わない」思考の仕組みへの発達を明らかにして行けたことになります。だからわりとじっくり間違いにも付き合えるのでしょう。
私はそうやって奇妙な間違いを繰り返す姿が面白くて、時々からかってみたり、ちょっと前進しそうになると大げさに励ましてみたり、彼らとのやりとりを楽しみながら、いろんなところでその子たちを褒めまくりました。褒め殺しにはならないように(笑)
褒めるというのは、行動主義的な心理学(ABAの基礎理論)でもキーになる働きかけですが、「動機付け」という観点からも大事なことですし、自我発達の文脈で考えても「自己意識」の成長にとって極めて大きな役割を持ち、さらに精神的な健康の面から見ても「自尊感情」とか「自己評価」を維持し、高めるための基本要素になります。
簡単に言えば「自分自身を肯定的にみることができるようになる」という、人が幸せに生きていくためにとても重要な要素にかかわる問題で、その人が前向きに、希望をもって積極的に生きていくことができるかどうかに深く関係してくるわけです。
私はその人を褒めるときに、「ほかの人に比べてどうか」ということより、「その人の中で以前と比べてどうか」とか、「どうしようとしているか」、あるいは「その子の中で頑張っているところはどこか」「どこがその子の伸びる可能性のポイントか」といった点に注意を向けることが多いので、この場合も自然にそうなりました。
ある子はホワイトボードで計算をするとき、ゆっくりゆっくり数字を書き、ちょっとゆがんだと思ったら消して書き直し、という感じでした。納得のいくまでじっくりやりたいのかもしれません。それでいつもとても慎重にしっかり書くので「お前すごい丁寧に書けるな!」と感心して言いました。
そんな感じで褒めると、すごくはにかむんですね。うれしいんでしょうけれど、「褒められ慣れていなくて、どうしたらいいかわからない」という感じです。「え?なんで俺がほめられるの?」といったちょっとしたとまどいを含む感じです。
そんな彼が、他の子が計算問題を解いているときに、一人でホワイトボードに数字を並べてじっと考え事をしている風でした。ちょうど累乗の計算をやっているところで、1,4,9,16,25,36,49,64,81,100,121……といった形で数字を並べ、やがて隣り合う数字の差を並べていきます。つまり、3,5,7,9,11,13,15,17,19,21……ということですね。そしてそこに隠されていた法則性を自分から見出して、びっくりして、そして喜んでいました。
一見すると無秩序に見える現象の背後に、一貫した隠れた法則性を見出す、というのは、科学の最も基本的な営みのひとつで、それを見出すことが研究者のとても大きな喜びなのですが、彼はじっくりじっくり自分のペースで考える中で、まさにそういう発見の面白さに興奮したことになります。
「3-5=8」の彼らは、ほぼ一年後の受験の前には、一応は因数分解や解の公式を使って問題を解くところまで進んでいきました。もちろんその意味を理解するところまではむつかしく、なんとかあてはめ方と計算の仕方を身に着けたところまでですが、それでも大したものです。
支援の面白さというは、そんな風に子どもが自分のペースで、自分の力で、新しい世界に挑戦し、自分なりの解決の仕方を「発見」していくプロセスに、いろいろちょっかいをかけながら関わって、その成長を楽しむ、そんなところにあるように思います。
そして上手なちょっかいのかけ方を身に着けていくのが、支援者の側の成長、ということになるのでしょう。自分の成長が相手の成長につながる。人の成長に付き合う仕事の、その辺りがだいご味という気がします。
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