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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.08.23

自閉的な「無視」と定型的な「無視」の意味の違い

初めて自閉的な子、特に知的な発達の遅れを伴うカナータイプの自閉の子に接した方は、大変に戸惑われた経験をお持ちだろうと思います。

たとえば積み木を一列に並べてずっと遊んでいるけれども、そこに全然発展がみられず、同じようなことをただ繰り返しているだけのように見えることがよくあります。よく「こだわり」とも表現されることのある行動の一つです。

それで、もっと楽しく遊びを発展させてあげたくなり、積み木で別のものを作って見せてあげたり、その子が作っているものに何かを付け加えようとするのですが、全く無視されたり、拒否されたりということがよく起こります。

こちらとしては「子どものために」、「その子が楽しめるために」働きかけているつもりなので、それを全く無視されたり(場合によってはそこに人として自分がいること自体を認めてもらっていないのではないか、と感じられることさえあります)、拒絶されたりするのはとてもショッキングなことでもあります。

そんな形で「人を拒否している」と感じられ、「自分の世界に閉じこもっている」とみられるので「自閉」と言われるのでしょう。

けれども自閉の子との付き合いが深まっていけば、そういうみかたは間違っていることに気づき始めます。自閉の子も他の人のかかわりを求めますし、お母さんに対する強い愛着も育っていきます。

つまり、自閉の子は人を拒否してるのではなく、その子にあったかかわり方が出来ていないために、そのかかわり方を嫌がったり、理解できずに「結果として無視」したりしているのですね。

この「無視」ですが、定型的な関係で相手の働きかけを「無視」するということは、相手の人に対するかなりつよい怒りや拒絶、攻撃的な気持ちを表していると理解されるのが普通です。ほんとうは相手に働きかけられたなら何か返すのが「普通」なのに、それをあえてしないのは、そういうことの「表現」なのだ、と理解されてしまうわけです。

それで「無視された」と感じることで、そのショックも強まるのですね。ところがこれもおそらくは自閉系の子どもから大人の方にまでしばしば向けられていまう「誤解」なのです。別に相手への否定の表現として「無視」しているのではなく、単に応答する必要性を感じていないだけのことが多いと考えられるからです。

そういうところにも表れますが、定型は相手の表情や姿勢、視線の動き、声の調子などをすべてその人の「自分に対する気持ちの表現」として理解しようとする傾向が大変に強いものです。自分の声掛けに対して相手の人がどう応答するかをとても気にします。

ところが自閉系の方たちは、そういうところに注意を向けることが少ないと思えるのですね。それで自分の表情などが、相手にどう理解(多くの場合は誤解)されるかも意識されないことが多くなるので、そういうところでお互いのコミュニケーションがぜんぜんちぐはぐになったりするのです。

小さな自閉の子どもがこちらの働きかけを「無視」するように見えるのは、ですから、自分に対する拒絶や非難のようにとらえる必要は多分ないでしょう。ただたんにその子にとっては意味のない働きかけになっているので、はんのうしていない、というだけのことなのです。もちろんその意味のない働きかけがあまりにしつこく、子どもにとって自分がやりたいことを邪魔しているように感じられた時は、怒りだしたり、どこかへ行ってしまうことはあるでしょうが、それは「しつこい」から、ということになります。

この話は、「自閉的なコミュニケーション」と「定型的なコミュニケーション」の性格の違い、という大きな問題につながっていくだろうと私は思っています。その性格の違いをしっかりとらえていくことが、療育支援にとっても、また成人後の定型発達者と自閉系の方たちのコミュニケーションの調整にとっても、とても大きな意味を持つと考えられます。

その問題についてはまたの機会に少し考えてみたいと思います。

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