2019.09.04
遊びか訓練か(1)
療育にとって、子どもと一緒に楽しむ関係が基本なので遊ぶことが大事なのか、それともこの世の中で生きていく力を少しでも伸ばすことが大事なのだから、多少苦しくても訓練を行うことが大事なのか、ということがよく問題にされるように思います。
どちらも大事なことなので、これは単純な答えはなくて、場合による、というのが一番無理ない答えになると思います。
たとえばまだ言葉でのコミュニケーションも成り立たない段階の子どもに発達支援を行うときには、これはほぼ間違いなく「一緒に遊ぶ」ことこそが基本中の基本です。
けれども「療育にわざわざ来ているのに、遊んでばかりで意味がない」と感じられ、場合によって不安になられる親御さんもあります。
それは言葉の力を生むものは何なのか、ということについて、よくご存じないことから来る疑問や不安であることがほとんどだろうと思います。
浜田さんも説明してくださっていますが、言葉の一番の働きは人と意味を共有し、一緒に活動するための道具としての働きです。
「まま」「パパ」「まんま」「わんわん」など、一歳頃出てくる「一語文」という言葉は、あえて大人の言葉に翻訳すると「まんま欲しい」とか「わんわんがいる」などの意味になりますが、例えば「まんま欲しい」というのは「お母さん、まんまに注目して!(注意の共有)」という指示と、「まんまを私にちょうだい」という要求と、二つの意味を持っています。
「だっこ!」というのも「僕に注目して!」という指示と「僕を抱き上げて!」という要求の二つの意味を相手に伝えます。
つまり言葉には相手と何かへの注目を共有する働きと、その注目の対象にどう働きかけるか、そのやり方を要求する働きの二つがあって、その働きによって相手と一緒にやりとりができるようになるわけです。
一緒に遊ぶ、ということには言葉を準備するそのすべての要素が入っています。ですから遊びはまさに言葉の前提となる一番基本的なやりとりの力を育てるものなのです。
しかも遊びは楽しいもので、子どものやる気を引き出します。やる気が出ればそれだけそういう活動を繰り返そうとしますから、それだけやりとり経験が増え、結果として言葉に必要な「訓練」が、自発的に行なわれるようになっているわけです。そういう意味では「遊びそのものが訓練になっている」という言い方もできるかもしれません。
「遊びはそれ自身が目的の活動」という定義をする人もあって、「○○の訓練のために」と考えてしまったらもうそれは遊びとは言えないのだ、という考え方もあります。ただ、子ども自身が遊んでいるときはそれに熱中することが大事なので、そう言えるかもしれませんが、その遊びに大人が療育支援として付き合うときには、その遊びの「意味」を考えることも当然だろうと思います。
もう少し上の年齢、つまり言葉を獲得した後、ごっこ遊びなどを盛んにする段階ではどうでしょうか?
この時期も基本的には遊びを通していろいろなことを学んでいきます。たとえばままごと遊びでは、子どもはお母さん役や子ども役、お父さん役、時には猫の役になって盛んに楽しんでいます。そばで見ていると、お母さん役の子どもの言葉など、「ああ、きっとこの子のお母さんは家でそんな言い方をしているんだろうな」と想像できて面白いです。
私たちは社会の中で何かの「役」を身に着けて生きているわけですが、ままごと遊びの中で子どもたちは自分の家庭でのいろんな人のまねしながら、「家庭での役」を理解していくわけですね。つまり社会で生きていくための基本的な力をそこで育てているわけです。このころは保育園などでもそろそろお当番さんなどの役割もできるようになる時期です。
ごっご遊びもそうですし、絵本などもそうですし、お人形遊びも、積み木遊びも、このころの子どもたちは盛んに言葉や物、そして体を使ってイメージを膨らませていく遊びをしています。このイメージを自由自在に操って遊ぶという力は、やがて「頭の中でいろいろなことを考える」の発達へと結びついていきます。
というわけで、特に小さいうちは遊びこそが子どもの発達を作る力である、という考え方が、特に現代では世界的にも主流の考え方(※)になっていますし、おそらく今後もその方向はより強まっていくのかなと思います。多分世の中の流動性がどんどん高まって、「今あるものを人から学ぶ」のではなく、「自分でいろいろ新しい見方や考え方を発見していく」という姿勢がより重視されるようになってきているので、そうなるんだろうなと思います。
動物の進化を見ても、行動が複雑になればなるほど、生まれてから身に着けるべきことが多くなればなるほど(つまりは環境に柔軟に対応する力が増えるほど)、遊ぶ期間が増えていくようです。実際人間ほどたくさん遊ぶ動物はほかにはいませんよね。
※ ただし、歴史的にみると、近代以前はそういう考え方は必ずしも主流ではなく、小さいうちからしっかりと鍛え上げなければならない、という教育思想も少なくありませんでした。たとえば科挙という世界で最もむつかしい試験(数千人に一人程度しか最終段階に合格しない)を出世の一番の手段とした中国では、早ければ4,5歳くらいから儒教の基本文献の暗唱を徹底して行い、覚えられないと厳しい体罰を与えられました。
また文化によってもかなり見方は違うようです。たとえば日本でも、儒教的な教育の思想はある程度入ってきて、貝原益軒の「和俗童子訓」という育児本などは儒教的な教育論を説いているところが多いですが、当時の実際の子育ての様子をみると、子どもはのびのびと育てるべき、という考え方が主流だったと考えられます。
時代が変わり、文化が変われば「求められる大人の像」も変わりますので、教育の考え方も様々になります。遊びか訓練かという問題にも、そういう文化の視点を入れて考えることがどうしても欠かせません。
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