発達支援交流サイト はつけんラボ

                 お問合せ   会員登録

はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2019.09.03

R君の積み木(2)崩すことの意味

R君がずっとひとり積み木を一列に並べているとき、定型発達者の感覚からすると、「意味のないことにこだわりを持ち、世界が拡がっていかない」と感じられます。

それでもっとその世界を拡げて、他の人と共有する力をつけてあげたくなり、極端な場合はその「こだわり」を無理にでもやめさせようとしたり、そうでなくてもその子のやっていることに新しい要素を加えようとしたりします。例えばR君の事例ではその横で積み木の塔を作って見せる、というようなことです。

R君の場合、すでにその兆候は現れているようてすが、積み木の塔を作ってみせるという大人の働きかけは、R君にだんだん意味を持ってき始めているようで、これからやがて彼なりに意味付けて自分の遊びに取り込んでいくだろうと思います。(それがいつ頃どう展開していくのかが私の注目点のひとつです)

けれども逆に大人がせっかく作って見せてあげている塔を壊してしまう、ということも見られていますし、そういうパターンは他のカナータイプの自閉の子にもしばしば見られます。ということで、ここで考えてみたいのは、なぜ壊すのか、ということです。

おとなが作って見せたものを壊す、という反応自体は、定型発達の子にも普通に見られることです。その意味は「相手に対する」怒りの表現のこともありますし、もうひとつは壊すこと自体を楽しんで、「おとなが作る」→「子どもが壊す」→「おとなが作る」→「子どもが壊す」→‥‥というやりとりを自体を遊びとして楽しんでいることも結構あります。

何事も作ることより壊す方が簡単なので、特に幼い子どもは自分にでもできる「壊す」という行動で、その変化を楽しみ、また大人とのやりとりを楽しみます。ですからこのパターンの場合は、子どもはキャッキャ、キャッキャと笑いながら壊すことを楽しんでいます。

けれどもR君のこのケースの場合は明らかにそのパターンではありません。よろこんで壊すわけでもないし、壊したあとまたおとなが作ってくれるのを期待して待つわけでもないからです。その意味で大人の働きかけへの拒絶、否定の意味を持つと見られます。

大人の側は言ってみれば「ねえ、一緒にこんなこともして遊ぼうよ」という一種の呼びかけ、誘いとしてそれをしています。こういう「他の子の遊びへの参加の仕方」は二歳代以降、活発に見られるようになりますし、三歳代位からはさらに「いれて」「寄せて」「まして」など、地域によって言い方は異なったりしますが、パターン化した参入の言葉を伴ってみんなの遊びに参加するといったことを盛んにやり始めます。(※)そういう、定型的にはごく自然な働きかけ方な訳です。

それがうまくいかない。しかも単に無視ではなく、壊されるという形で否定されるので、大人の側はショックを受けたりもするのですが、私が気になるのはその「否定」の意味を、定型的な「拒絶」、「強い非難や抗議」と受け取っていいのか、ということなんですね。それとはちょっとちがうと感じるからです。

ここではまず、こだわりというような定型的な意味付けをちょっと置いておいておきたいと思います。というのはと感じられるのは、あくまでも「定型的な感覚で見た時の意味」が見えないからだと思われるからです。逆にR君自身にとっての意味をもう少し想像できないかどうか、定型にとっても「わけのわからないこだわり」ではなく、「意味のある事」と理解する道はないかどうかを探る試みです。

そうすると、障がい観の「発達」でご紹介したように、とりあえず「列車」に見立て、その列車を駅で見た時のシーンを再現して楽しんでいるんじゃないか、という想像ができるようになります。そうなら定型的に見ても十分「意味のある」遊びに見え始めます。「わけのわからない奇声」と聞こえていたものも、「効果音」に聞こえてきます。

定型との違いは、そこでその見立てを周囲の人と共有して楽しもうとする姿勢を感じにくいことです。定型の場合は、たとえば「効果音」を声で出すにしても、ごく自然に(特に教えられたわけでもないのに)、他の人も使うような音の調子で表現します。それでその音の調子ならそれは「電車の音」としてすぐに周囲も理解できるのですが、自閉的な子の場合、他の人はどうかはあまり気にせず、「自分に聞こえたままの音」を自分なりに再現しようとするのだと思えます。そうすると周囲の人には理解しにくいので「わけのわからない(意味のない)奇声」に聞こえてしまう。

もう一つの違いは、他の人と一緒に遊びを展開させようとする、という姿勢を感じにくいことです。こちらが働きかけても無視されたり拒絶されたりするような展開でそのことが感じられます。そうなる理由を定型にも理解可能な形で説明することが出来ないだろうかと考えた時に、たとえばこういうたとえ話が使えるのではないかと思います。

自分が自分の部屋で大好きな音楽を聴いていたとします。その部屋に急に他の人が入ってきて、その人の好きな音楽を突然鳴らしだしたとしたらどう感じるでしょうか。

絵を一生懸命書いていたとします。自分なりに気に入って、入れ込んで書いている絵です。そこにほかの人がやってきて、急に「この絵、面白いね!じゃ、このまだ書いてないところにこんな絵も描いて見せてあげる」と言って自分が予定もしていない内容の絵を描き加え始めたらどう感じるでしょうか。

一人静かに感動しながら本を読んでいるとき、突然他の人が隣に来て自分の持っている本を朗読し始めたらどうでしょう?

そんな風に想像してみると、ちょっとR君たちが大人の働きかけを無視したり、拒絶したりするときの気持ちがわかる気がしてこないでしょうか。

そういうふうにたとえ話で理解してみると、その感じはアスペルガーの方がときどき見せる姿勢にもつながって私には感じられるようになります。アスペルガーと言う自閉系の方たちは、カナータイプの方たちに比べれば、通常の言葉でのコミュニケーションのスムーズさは全くレベルが違います。むしろ通じすぎて、実際にはその裏に隠れているズレにお互いがなかなか気づきにくいほどです。にもかかわらず、このたとえ話で説明した感じ方の強さ、という点では自閉系の方たちに一貫した感性を感じるのですね。ですからそれは「言葉が通じないからそうなる」というようなものではなく、それ以前の感性のずれの問題だということが想像されます。

さらにそこにその拒絶に見える行動(大人の積み木を崩すなど)が、相手への「表現」ではなく、単に自分の世界にとってじゃまな「要素」を取り払おうとするだけの行動であったりする可能性があって、それが「私の働きかけの姿勢を拒否された」「私を拒否された」と誤解して感じてしまうという、定型側の反応につながるのだろうと思います。この辺もわかりにくい説明となっているように思うので、またおいおい整理していきたいポイントです。

初めに書いたように、実際そういう自閉系の子どもたちも、大人の働きかけを必ず拒否したりするわけではなく、それなりに受け入れて発達していきます。R君も大人の作った積み木の塔を崩すだけではなく、自分でも作ったりもしています。ただその受け入れ方が多分かなり違うんです。その受け入れ方のズレをどこまで理解できるか、ということが、定型と自閉系の感覚のズレを否定せずに、そのうえで有効なコミュニケーションの仕方を探るためのカギになるだろうと私は予想しています。

※ この参入の仕方にも文化差があり、例えばお茶大の柴坂さんの研究では、ドイツなどでは「新しい遊び方の提案」などをしながら入ろうとするようです。私が中国の子どもたちを見ていても、「入れて」に該当するような働きかけには気づきませんでした。単に見落としただけかもしれませんが、実際にそういうのはあまりやらないのではないかという予想はします。

RSS

コメント欄

 投稿はありません