はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.09.19

見守るということ

 
 
 研修のときに、ある課題を子どもにやらせようといろいろ工夫してアプローチしたんだけど、どうしても理解してくれない。どうしたらいいでしょう?というような課題を出して、みんなに議論してもらう、ということをよくやります。
 
 そこで使う課題は子どもの発達レベルによってはそもそも無理、という課題なのですが、発達心理学の知識のない方はそこがピンとこないので、なんとかうまく説明して理解させようと四苦八苦されます。
 
 で、正解は何かというと、「準備ができるまで<待つ>」というものです。
 
 まだ首が座っていない子どもにはいはいしなさい、といって訓練するのはばかげていることは、誰でもすぐにわかりますよね。体の事は目に見える形でわかりやすいです。けれども心理的なことはそういう意味では目には見えませんので、実際には「まだその準備はできていない」場合でも、そのことがピンとこない状態になりやすいです。
 
 それで、指差しの理解もまだできていないお子さんに「ことばの訓練をお願いします」という保護者の方もありますが、実際にはそれは首が座っていない子にはいはいの訓練を要求するようなことです(※)。
 
 その子の発達に見合う働きかけをしないと、お互いに不幸になります。子どもの方はわけのわからないことをひたすらやらされて、しんどくなるだけです。やがてフラストレーションがたまって怒りとなったり、出来ない自分に自信を失ったり、いいことがありません。
 
 働きかける大人のほうも、「この子のために頑張っている」つもりなのに、ぜんぜん成果が上がらず、焦り苛立ち、子どもを責めるか、自分を責めるか。どちらにしても何もいいことがありません
 
 ではどうするか。結局その課題についてはその子にそれをこなせる準備ができるまで待つしかないわけです。そしてその子にあった課題をする。そうすると子どもが伸びます。
 
 私自身は訓練(をさせる)と言うことばがあまり好きではありません。なぜならそれは訓練をさせる大人の方が主体で、子どもはそれに従うもの、というイメージがどうしても付きまとうからです。
 
 似たようなことでも「いい経験を繰り返す」という言い方だともうすこししっくりきます。人は経験を通して学ぶ、というのは普遍的なことですし、そして経験をするのは子ども自身という、子ども主体のイメージがあるからです。(まあ、「経験させる」というと微妙ですが(笑))
 
 周りがいくら頑張っても、結局課題を乗り越えて成長・発達するのは子ども自身です。大人にできることは、その成長の助けになる環境や、よい刺激を提供して、その成長・発達を支えることだけです。あとはその環境の中で子どもが自分で伸びていく姿を見守るしかありません。
 
 私は信心というものがない人間ですが、宗教者がいう「祈り」ということについて、いいなあと思うことがあります。昔、保育園に観察に通っていた時、そこはキリスト教系の園でしたので、一日に何度かお祈りがありました。たとえば
 
 「今日は○○ちゃんは風邪をひいてお休みです。○○ちゃんが早く治って保育園に来れるように、お祈りをしましょう」
 
 といった具合です。この祈りと言うのは、○○ちゃんを自分が治してやろうなどというかかわり方ではありません。治すのは最後は○○ちゃん自身の体の力なのですから、そこには自分の力は届きようがない。ただ○○ちゃんの回復を願うことが出来るだけです。その願う心がつまりは「祈る」ということなのかなと思うのです。
 
 子どもの成長を「見守る」というのもそういうことなのではないかと思います。手助けはするけれど、最後はその子自身が伸びる力に希望を持ち、願って見守るしかない。
 
 自分にできる、そしてその子の発達段階にあった手助けを行い、あとは子どもが課題を乗り越える準備ができるのを見守り、「待つ」ということが可能になるのは、そういう祈り=願いを子どもに向けていられるからではないでしょうか。
 
 発達の知識は、こどもの成長の見通しを与えてくれます。そういう知識もまた見守る力を与えてくれるのかなと、こういう仕事をしていると感じます。
 
 
※順序としてはそうなりますが、なぜ指差しの理解が言葉の前提になるのか、ということの心理学的な説明は記号の成立とか、志向性の相互調整といった少し込み入った話が入ってくるので、ここでは説明できません。ごく大づかみに言えば、指差しは「指」を使って、自分が関心を持っているものを相手に指し示す働きですし、相手の指差しを理解するというのは、相手の「指」を手掛かりに相手の人が関心を持っているものを知ることです。この「指」のかわりに「音声」が使われると、それが言葉になるわけです。 

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コメント欄(コメントは団体会員と個人会員Aの方が可能)

  1. 113 三重 四日市校 113 三重 四日市校

    >その子の発達に見合う働きかけをしないと、お互いに不幸になります。子どもの方はわけのわからないことをひたすらやらされて、しんどくなるだけです。やがてフラストレーションがたまって怒りとなったり、出来ない自分に自信を失ったり、いいことがありません。

    この事柄に気づく、気づかない、でお子さんが大きく変わります。しかしながら、大人としては現状を認めることほど難しいことはないのかもしれません。その先を諦めているわけでは決してないのですが、どうもそうとられがちです。難しい漢字を書けることはテストではいい点がとれますが、言葉の裏側が読めないことで他人との人間関係が不全になったりします。どっちもできるのがもちろんいいですが、どっちができるほうがいいのか。価値観の違いを埋めていくことに尽力していくことが、子供たち、保護者さんと関わり続けることと感じます。

  2. やまもと やまもと

    コメントありがとうございます。

    全国の事業所で事例について相談を受けた時、この問題が出てこない方が少ないくらい、みなさんこの保護者と支援者の子ども理解のズレに悩まれているようです。

    関西にいたころ、長いこと保護者の方の発達相談にも関わりましたが、初めて障がい児と言われたお子さんを育てる立場になって、なんとかこの子の力を伸ばしてやりたいと必死に努力される方が少なくありません。

    ただ、残念なことにその頑張りのポイントが子どもの実態とずれていまうことで、伸びる力も伸びなくなってしまう、という悲しい展開がしばしば起こっていました。その際の私の仕事は、お子さんの発達の状態などをできるだけわかりやすく保護者の方に説明することでした。そこが伝わると、多くの場合、目に見えて親子関係がよくなり、それまで抑えられていた発達の力がどんどん発揮されていきます。

    子どもが遊んでいるところを保護者の方と一緒に見ながら、その子のやっていることを私が実況中継する、ということも力になることがあります。それまで保護者が気づかれなかったその子の姿が次々に見えてくる、という体験をされるからです。そのことで子どもの見方に変化が現れるきっかけにもなります。

    同じ悩みを持っているほかの保護者の方たちと話し合う機会も重要だと感じています。先輩の保護者の方たちは、多かれ少なかれそういう焦りの気持ちで子どもにあわない期待を押し付け、結局それではうまくいかないことに気づかれて軌道修正をされた経験を持っているからです。その経験を聞くだけで気持ちが楽になられる方も多いと感じています。

    発達心理学の知識を持っていただくことも一つのきっかけになるかもしれません。

    機会があればタイミングを見て動画「僕は僕なんだから」(https://hatsuken.or.jp/video/detail/734/)見ていただくことで、そのあたりについて感じていただける方もきっとあるともいます。

    何がその方にあった接し方かはひとりひとり違うと思いますが、子どもの成長のために、試行錯誤でお互いに理解しあえるポイントを探る地道な努力が必要ですね。