はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.09.21

サン族の人の自閉症児の見方

もうずいぶん前になります。ある文化人類学の研究者のAさんと飲みに行ったときに教えていただいた話です。

その方はアフリカをフィールド(調査地)としてずっと通われている方で、アフリカ南部の狩猟採集民サン(以前はブッシュマンと呼ばれていた人たち)の人たちの中に入って生活を共にしながら観察を行い(参与観察)、その社会の中の人々の振る舞いや考え方、行動などを調べ、「人間とは何か」ということを追及されていくわけです。

現代の日本人とはかけ離れた生活をするサンの方たちを調べてなぜ「人間とは何か」がわかるのか、という疑問を持たれる方もあるかもしれませんね。

人はいろんな環境の中で、それぞれの歴史を経て、その環境に適したいろんな生き方を作ってきています。そうすると、違う地域で暮らす人たちは、自分たちには想像もつかないような生き方をしていたりするわけです。

そうなるのは「生まれながらに人間が違う」からではなく、環境によってつくられたその地域の人々の生き方の中で、大人に育てられて生きる中で、自ずとそのところでの生き方を人が身に着けていくからです。ですから、もしその人が全く違う地域で生まれた場合は、またまったく違った生き方になっていくわけです。

つまりそれが文化的な発達ということになります。

人とは何か、ということを考えるには、そういう大きな多様性を持つ人間のさまざまな生き方を比べながら、その中に共通して見えてくるものを探っていく、という作業が必要になります。それがチンパンジーなど、ほかの動物とは何がどう違うのかを明らかにするとき、「人のひとらしさ」が見えてくることになります。

さて、アフリカのカラハリ砂漠にサンのみなさんは生活をしています(※)。というと、ものすごく過酷な環境でぎりぎりの生活をされていると思うかもしれませんが、意外と労働時間は少なく、一日平均すれば3時間半程度だそうです。あとは寝たり休んだり、遊んだり、と優雅と言えば優雅な生活です。

とはいえ、雨は少なく、飲み水が得られやすいのは雨期の30日程度しかありません。そこでは水は大変な貴重品と言えます。

そこにAさんは息子さんを連れていかれたことがありました。その子は自閉症でした。

何がきっかけだったかはわかりませんが、その子がいら立って、飲み水をぶちまけたことがあったそうです。Aさんはその自閉の子にただ厳しく接することはしない方ですが、その厳しい環境の中で食糧と並んで一番大事ともいえる水をぶちまけたことについて、とても厳しい調子で叱ったとのことでした。

その時、Aさんの調査協力者であるサンの方が、水をぶちまけたこどもではなく、Aさんに真剣に怒ったそうです。その言葉は、細かい表現は間違いかもしれませんが、およそ「A,この子は人を殺せないような優しい子なんだ。その子にそんな風に怒るな!」といったことだったそうです。

Aさんは本当に心に残った話として教えてくれました。私もずっと記憶しています。

サンの社会ではいわゆる身分の上下やそれにともなう不平等な資源の配分のシステムがなく、基本的にみんな食料などを分かち合って生きている「平等性社会 egalitarian society」の典型と言われる生き方をしています。これも調査に行っている別の人に聞いて面白かったのですが、みんなで狩りに行って、誰かが獲物に矢を当てたとします。私たちの平均的な感覚ではその狩りにおける一番の功労者ですよね。大いばりでみんなの賞賛を浴びると思います。

一緒に狩りに参加していたほかの人たちも、だれが矢を当てたのかはだいたい気が付いているのですが、矢を受けながらも獲物が逃げながら弱って倒れるのを待つ間、みんなで話をしたりするようです。「あの矢はだれがあてたんだ?」

ところが矢を当てた本人はなかなか名乗り出ない。みんなはなんとなく(あるいははっきり)わかっているので、そのうちにその人だということがみんなで確認されていくのですが、当人はすごく恥ずかしそうなそぶりで「いや、あんな小さな獲物で申し訳ない」などと小さくなるんだそうです。実際には大きな獲物であってもです。しかも回りもまたそうやって彼を非難するそうです。

謙遜と言えば謙遜とも言えますが、それが相当強いらしいんですね。それは「当てた人だから威張って沢山肉をもらえる」といった不平等な関係を、そんなやりとりで消してしまう工夫なんだろうと、その話を教えてくれた人は言っていました。

そんな風に分かち合って平等に生きる。ほかの人の食べてるものも「友達、友達」と言いながらもらって食べるような生活です。力が強いから食べられる、弱いから食べられないという世界とは違います。

そういう世界の中で、Aさんの子どもが大事な水をぶちまけてしまったとしても、その子を責めるのではなく、逆にその子を責めるAさんを責めるような心の持ち方が成り立っているのだろうと思います。

障がいとは何か、何を障がいとするのか、障がいに対してどのように対するのか、といったことは、文化によってものすごく違うわけです。今私たちが自分たちのちっぽけな世界で「常識」とされている見方が通用する世界、地域、時代はそんなに大きなものではありません。決して固定的なものでもありません。

人間が持っているとても大きなバリエーションの中の、ある条件の中で成り立っている小さな可能性の一つに過ぎないのです。

はつけんカフェでは下川客員研究員が、アメリカのTEACCHについて、そしてそこでの障がいの見方について、面白いレポートを送ってくださっていますが、そこでも日本とはかなり違う障がいへの見方や接し方を感じ取ることができます。

人間はいろんな可能性の中で生きています。今私たちが縛られている小さな世界に閉じ込められることなく、いろんな可能性の中で障がいの問題を考えていくことがとても大事なのだと思います。

※ ただし政府の定住化政策で、旧来の狩猟採集生活を続ける方たちは減少しています。

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