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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.10.25

ディスコミュニケーション(2)受容と共感

自閉系の方が苦しめられやすい言葉に「共感」があります。定型発達者は共感を人間関係の重要な足場と考える特性がとても強く、逆に定型的な意味での共感(※)が理解しにくい自閉系の方たちは、共感に乏しいということで定型発達者から否定的に見られがちだからです。

そのズレはお互いにとって不幸なことで、定型中心の社会では自閉系の方たちの方がその点で責められやすいですが、逆にたとえば夫が自閉系で妻が定型発達者といった夫婦の中では、妻の方が夫婦として求める共感的な関係が得られにくいために深く傷つき、鬱になったり自殺に走ったりする、という例が少なくありません。このような状態は「カサンドラ症候群」という名前までついていて、その状態に苦しむ方たちの自助グループもいくつもできていますし、またそのような夫婦を専門にカウンセリングする英国のアストンさんという人もいたりします。お互いにこの問題では苦しむのです。

この共感的な関係を重視する、という点では、日本の社会は他に比べて非常に強いものを持っているようです。「同じ」であることを重視するという日本に強い対人関係の感覚とおそらく関係があるのだろうと思いますが、どちらも自閉系の方たちには大変につらい条件となります。

カウンセリングの中でもクライエントへの共感的な態度は大変に重要視されていて、受容的な態度の重要性とともにそのことを非常に強調したのは「来談者中心療法」を創始したアメリカのカール・ロジャースという人ですが、この受容や共感という概念も、ロジャース自身のそれと日本で広がったそれには大きなずれがあるようです。

そのことを私が知ったのは、ロジャースのもとに院生時代に留学をしたある有名なカウンセラーの人のカウンセリング実習を学生のときに受けた時でした。こんなエピソードを教えてもらったのです。

彼が初めてロジャースのもとに行き、その授業に出た時の話です。留学したてのことですし、さまざまな不安や緊張を抱えていたころです。授業が終わり、彼はほかの学生たちと話をしているロジャースのところへ寄って行って声を掛けました。多分少しでも彼らになじみ、よい留学生活を始めたかったのでしょう。また自分の不安をロジャースにも受け止めてほしかったのだろうと思います。

とうぜん受容的な態度、共感を重視するのであれば、その彼の不安な気持ちを受け止め、それに共感することが基本だ、と日本的なカウンセリングの感覚では自然にそう思うでしょうし、その総本山であるロジャースなら当然そうするものと予想すると思います。

ところが話しかけた彼をちょっと見ると、声を掛けることもなく、他の学生たちとさっさと教室を出てしまったという事でした。

その例を引き合いに、彼は実習で「ロジャースの受容と共感は日本で思われているような温かく受け入れるといったものとは違う」という意味のことを言いました。私はそれを聞いてとても驚くとともに、妙に納得したのでした。

ここから先は私の解釈が入るので、どこまでロジャース本人の感覚に合うのかはわかりません。

このエピソードなどから私が感じたことは、ロジャースの受容や共感は、それがそもそもほとんど不可能であるか、あるいは少なくともとてつもなく困難である、という覚悟の上の態度だろうということでした。わからないからこそ真剣に向き合う。わかろうと努める。そして本当に納得できたと感じられた時に初めて同意の言葉を発する。そういう態度です。だから留学したての彼の安易(に見える)なアプローチ、そこに隠された日本的な甘えの感覚をロジャースは直観的に切り捨てたのでしょう。

自分が自分でいられるということは、自分の気持ちに素直でいられることを含んでいると思います。それはたとえほかの人の気持ちと違う時にでも、その自分の気持ちを否定しないことでもあります。ロジャースの態度は、そのような人のありかたを大事にしているようにも見えます。

私のこれまでの経験からの感覚では、自閉系の方たちの多くが、そのような意味で自分でいられることを本来とても大事にしてるにもかかわらず、自分には理解困難な定型的な感覚に共感することを求められ続け、それをしなければいじめられたり拒絶されたりする、という状況に置かれやすいのだと思います。

人が生きるうえで大事な共感とは何か、何が受容的な態度であるのか、ということについて、定型の感覚と自閉系の方の感覚はかなりずれているのにそれに気づきにくい。それは日本的な受容・共感の感覚と、ロジャース的な(多分アメリカなどではそれなりに多い)感覚の間の大きなずれをさらに上回るものだと思います。

お互いに不幸なディスコミュニケーションの展開を減らしていくには、「共感」や「受容」といったかなり素朴な感覚についても、そのズレ方をしっかり見つめていくことが大事なのだろうと思います。

※自閉系の特徴として「共感能力が低い」という言い方がしばしば聞かれるように思います。しかし私は決して単純にそうは考えません。多くの場合、それは「共感の仕方、ポイントが違う」ことから、定型にとっての共感が得られないためにそういう評価が生まれ、さらに場合によってはそのような定型的共感を押し付けられ続けることで、それに拒絶的な姿勢になって、本来別の形で育ちうる共感も育ちにくくなったために起こることだと考えています。この点についてはまたおいおい考えてみたいと思います。

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