2019.09.29
意味と習慣づけ
子どものしつけとか教育、療育など、いわゆる子育てに関係する態度として、大きく言うと二つの方向の強調の仕方があるように思います。
ひとつは「その行動の意味を理解できるように教える」ことを重視する立場。
もうひとつは「まずはその行動をとれるように訓練する」ことを重視する立場。
私の好みは「ちゃんと意味を理解して」という方で、形だけというのは押し付けのような感じがして苦手なのですが、ただ現実の成長発達のことを考えると、それだけで理解できるとも思えません。
ふと思い出したのですが、私の父親はかなりの頑固者でしたが、その教育思想は「小さいうちはわけがわからないのだから、有無を言わさずそれをさせるが、大きくなると判断力がつくから、頭ごなしにはしない」というものでした。というわけで、小学校の中学年くらいまでは、今でいう「体罰」があったのを覚えています。(ほっぺたが腫れるくらいのことも)
私は「文化」という視点から発達を考える立場(文化発達心理学などと呼んでいます)ですが、それぞれの文化の中で重視された「行動の基準」というのは「なんで?」とその意味を言われても答えられないものが多いです。
たとえば日本では通常の食事では箸やスプーン、フォークなどを使うことが不可欠のように考えられていますが、パンやおにぎりなどは必ずしもそうではないですし、焼き芋でもそうですね。その違いは何なの?と言われてもよくわからない。さらに言えば、インドなどに行くと(インドもめちゃくちゃ多様なのでどの範囲かはわかりませんが)、カレーなど手で食べる、という習慣があります。日本的にみると「野蛮」みたいに思われるのかもしれませんが、でもそれは立派な作法で、「上手なご飯のつかみ方」みたいのもあるみたいですね。そこに洗練された優雅さが求められたりするのでしょう。食べるのは基本的に右手だったと思います。これは左手が不浄の手だったからだったような。
「畳のヘリを踏まない」という作法だって、「なんで?」と言われれば全然わかりません。なんかいわれがあったのかもしれませんが、そんなこと知っている人はほとんどないでしょうし、本当にそれが理由だとも言えない。そこが文化的な作法(規範)の本質だ、というのが私の文化論でもあります。
言ってみれば、そういうふうに決めること自体に意味がある、という見方の方がわかりやすかったりします。行動に意味があるのではなく。
レヴィストロースという文化人類学者がいましたが、彼は「近親結婚はなぜタブーになるのか」について、集団間の女性の交換(族外婚)を可能にするためだ、というような説明をしました。でも、仮にその説明が行けていたとしても、近親婚を避けようとする人自身にそういう意味を理解している人はほとんどないでしょうね。ただ「それってやばいよね」という感覚があるだけで。
ということで、新しい行動を身に着けるときにも、本人がちゃんとその意味を理解して行っているものは実際には非常に少ないのだと言えます。
習慣というもの、朝起きたら歯を磨くかどうかとか、朝の挨拶をするかどうかとか、その辺も同じことです。ただ身についているから、くらいにしか説明できない。社会のルールはそういうたぐいのものが多くあります。
アスペルガー系の方に、あいさつの意味がわからん、と抵抗感を持つ方もいらっしゃいますね。ですから、正面切って「なんであいさつなんてする必要があるんですか?なんの意味もないじゃないですか」と問われると、「いやあ、でもあいさつしないと気持ちが悪いでしょう」とか、その程度のことしか言えないでしょう。そうすると「いや、別に気持ち悪くはないです。それよりそんな意味のない無駄なことをする方がよほど気持ち悪いです」と言われると、もう反論がむつかしくなります。
定型は個人差はあるにしても、比較的周りの人と波長を合わせようと無意識に振舞うことが多く、文化的な習慣もそういう傾向がベースになって身についていく部分が多いと思われます。「○○だからこうしなさい」と言われて自覚的にそうしているわけではない。ところが自閉系の方の場合、そういう同調的な傾向がもともと少ないので、周りのやっていることの意味が分からず、困惑することが多くなるのでしょう。
すると感覚的にわかりにくいので、頭でその意味(仕組み)を考えることが多くなります。また、そういうタイプの子に教える時も、理屈で説明したほうが伝わりやすくなったりします。ABA(応用的行動分析)なども、意味を理解させるより、その子にとっての利害を調整して行動パターンを教え込むという方法を使い、自閉的な子に対してもそれなりに効果を上げることになりますが、それもこのあたりのことが関係すると思われます。
ということで、個人的には「意味」を大事にしたいのですし、発達障がい児・者が二次障がいに追い込まれるのは、まさにその「意味」のレベルで発生することだということはほぼ確信を持っているので、そのことにはこだわって考え続け、これからの共生の在り方を探っていく必要性については揺るがないのですが、同時に「習慣づけ」のレベルの問題については、また違った観点からの議論もやっぱり必要なのだろうと思うのでした。
その二つの関係がどうあるべきなのか。さて、私の父親の話はどこまで通用するのでしょうか?
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
- 大事なのは「そうなる過程」
- 今年もよろしくお願いします
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