2019.10.11
当事者による療育支援の意義
「自閉の子が言語的コミュニケーションを獲得する瞬間」(1)(2)では、それまで大人の働きかけを拒絶していた自閉症の4歳のA君が、大人の言葉による指示を理解し、それに応じてくれるようになったプロセスと、その意味について述べました。
そこにご自身がアスペルガー当事者である大内さんの働きかけ方が極めて有効に働き、それが大きな要因となってA君の劇的な変化が促されたと私には思えるのですが、では大内さんの何がそれを可能にしたと考えられるでしょうか。
その理由として、これはあくまでも推測ですが、私は大内さん自身が当事者としての感性を持ちつつA君に接したことが非常に大きかっただろうと思うのです。(補記)
A君に対して、その発達レベルや心理的な状態に適した対応をすることで、二次障がいをなくし、成長への足場を作る、という前半の展開については、これは大内さんがアスペルガー当事者であったことはそれほど関係がないように思えます。定型のスタッフでも、そういう姿勢で子どもに臨んでいる方はたくさんいらっしゃいますし、その結果優れた成果を上げているケースにもたくさん出会います。
それに対してこのA君のケースのもう一つの展開、つまり言語的コミュニケーションの世界への導入について、その重要なきっかけになったのが「手を強く握る=握られる」ということを、行動の切り替えの「合図」としてすっと使えたことにあると思えます。
なぜ大内さんはそのような展開をスムーズに導入できたのか。その理由のひとつは大内さんが持っている「通じ合う」ことへの鋭い感覚だろうと思います。私の経験から考えると、自閉系の人の「表現」はとても微妙で、定型のように意図的にはっきりと行われる場合が少なかったりするために、気づかれにくいことがよくあります。場合によって本人も全く気付いていないようであることもあります。そのかすかな子どもの気持ちの動きを敏感にキャッチできることが大内さんには可能だった。それが「握る」ことに対して「握り返される」ことで「通じた」と感じられるような感性でしょう。
仮にその場にいたのが私で、私がA君と手を握りながら散歩をしていたとすると、頑張ればその辺りまでは気づく可能性はないとは言えないと思います。けれどもその前提となっている、「手を強く握る」という子どもへの働きかけ方をまず思いつかなかった可能性が高いと感じます。さらに仮に「手を握る=握り返される」といったやりとりまではできたとしても、それを次のコミュニケーション的な行動への切り替えの合図に使う、ということはまず思いつかなかったでしょう。
なぜなら私ならそこでどうしても「今度はこっちに行こうか」とか「走ろうか」など、はっきりわかる形での「ことば」による「表現」の形を使ってしまうと思うからです。けれども多分この状況ではそのはたらきかけかたではA君にはうまく伝わらなかったでしょう。とりわけA君のように自閉傾向のある子どもについては、言語的な通じ合いの前に、「お互いに手を握り合う」といったその前段階の通じ合いに大事な意味があること、それがとても大事なことであり、そこを飛ばして先に進んではいけない、ということに私はとっさに気づきにくいだろうと思います。ましてや「握る=握り返す」ということが次の行動への転換点として子どもとすぐに共有可能になるという発想はまずなかったと思います。
自閉系の方たちは、定型的な言語的コミュニケーションは苦手です。アスペルガータイプの自閉の方は言葉自体は流ちょうに話せるようになるのですが、定型的なあいまいなニュアンスの使い方、多義的な言葉の使い方などは苦手なことが多く、コミュニケーションの手段としての言葉の可能性については、定型ほどに重視しにくい状態にあると考えられ、むしろ言葉が通じ合わないことのイメージの方が強かったりすると思います。
けれども言葉に頼りにくい分、別の形での通じ合いには非常に敏感になるように思えるのです。この辺は具体的にはまたおいおい考えてみたいと思っていますが、定型とはすこし異なる通じ合わせ方を発達させていると思える。言い方を変えると、定型的なスタイルのコミュニケーションを発達させるのはむつかしいけれども、自閉的なスタイルのコミュニケーションを発達させているのだろうと思えるのです。
そして大内さんとA君が「手を握り、握り返される」といういことで通じ合うものに敏感だったということ、そしてそれが「合図」としてお互いの行動調整の手段として使えるようにスムーズに展開する、ということの中に、定型(少なくとも私)とは違う、コミュニケーションへの独特の鋭い感性を感じとるのです。
それは定型基準で考えた発達の図式から言えば「ことばの前のことば」(※)とでもいえるようなレベルのやりとりになりますが、おそらく定型的な発達図式とは少し違う形で展開する、自閉系的なコミュニケーションの発達の中で理解できるような通じ合いなのではないかと思います。それがいったい何なのかは今の私には説明ができませんし、それを説明するような既存の心理学なども寡聞にして知りませんが、多分ここに重要な問題が隠れているはずです。
そう考えてみると、A君の今回の展開は、そこに関わった支援者が大内さんという当事者であったからこそ成立しやすかったのだ、とも思えるのです。その当事者としての敏感さがA君と響きあい、二人の間に新しい通じ合いの世界を生み出し、それがさらに言語理解にもつながっていった。もちろん定型でもそのあたりに極度に敏感な方ならあり得たかもしれませんが、実際にはそれはかなりむつかしそうに感じます。
このブログでは、旧来の定型中心の見方による発達障がい者支援や、さらに言えば発達の理論そのものについて、当事者の視点を組み込みながら根本的な再検討を行っていこうとしているわけですが、そういう視点から考えた時も、A君と大内さんの間に生み出されたこの展開は大変に興味深いものだと言えますし、そこをさらに考えていくことで、「当事者による療育支援の意義」を明らかにしていくことが可能になるのだろうと思います。このサイトが当事者を含めた対話的な関係を重視する意味でもあります。
※ この「ことばの前のことば」というのは、9か月頃の三項関係の成立を重要な発達の節目としてとりあげたやまだようこさんの本のタイトルでもありますが、ここではそのような定型発達者に典型的な認識のレベルでの間主観的心理機能の発達を指し示す意味ではなく、もう少し広い可能性の中で感覚的な通じ合いといったことも含めて考えています。多分自閉系の方たちとのコミュニケーションを考える場合、その次元から考え直すことが必要だと思えるからです。
補記: この記事を読んでくださった発達障がいにもかかわる研究仲間から、それは定型発達者とアスペルガー当事者の差であるより、言語外の行動への敏感さの違いの問題だろうとお叱りを受けました(汗)。たしかにその面での自分の鈍感さを考えると、それも否定できないと思います(笑)。いずれにせよ、程度の差はあれ、その人にとって使いやすい手段の力が発揮されやすくなる、というのは一般的に言えることでしょうし、その点でアスペルガー当事者は、定型的な言語的コミュニケーションの世界はなじみにくく、それ以外の手段をより重視しやすくなる、ということは言えるだろうと思います。
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