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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.10.05

不登校のADHDの子が登校する

 
 
ある、自然も豊かな地方都市でのことです。小学2年のA君が不登校になりました。ADHDの診断を受けていて、事例検討会で聞いていると甘えん坊でとてもやんちゃな男の子、という印象です。支援スタッフがその時準備してくれたその子のイラストを見ると、洗うのが嫌いな髪の毛はボサボサと広がっていて、いかにも「野山を一日中駆け回って遊んでいる元気な子」という印象です。
 

 
以下、お母さんとA君に許可していただいてご紹介します。
 
学校では元気すぎて回りの子と度々衝突し、トラブルにもなったりしたようです。2年生の事例検討会の時点では、もう学校には行かなくなっていました。たまに行けたとしても1~2時間までだったそうです。感情の動きも激しくて、大好きな人にはすごく甘え、愛を求める感じ。その大好きなお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんと暮らしています。で、勉強の方はかなり苦手。
 
お母さんはどちらかというとおっとりした方という印象で、あまりに活発なA君には振り回されぎみです。エネルギーのあるお子さんに、どう対応したらいいか日頃から悩まれていて、完全に不登校状態のA君を連れて発達障がい児支援の教室(事業所)に通い始められました。
 
教室では遅れている学習の支援も試みてみましたが、とにかく勉強は嫌がって拒否します。それでとにかく子どものやりたいこと、好きなことに徹底的に付き合うことを続けられました。事例検討会では、今の一番の課題は学習面の支援より、「A君にとっての居場所」づくりと、そこをベースにした「自己コントロール」の力の育成だろうと見立てられました。そして集まった他教室の皆さんで、彼の興味関心を生かしたどんな関わり方が考えるか、アイディアを出しあいました。
 
その後、まれにはプリント学習をやったりすることもあったようですが、基本的には本人がそのときにやりたいことに支援スタッフが徹底して付き合うことを続けたようです。けれども一向に不登校状態は改善せず、その状態が数ヶ月続き、スタッフの皆さんも「本当にこれでいいのか」ということについて、確信を持ちきれずにいたようです。
  
それが3年生に上がる4月、周囲の皆さんの心配をよそに、A君は自分から登校を始めだし、その後は時々早退することはあっても、ずっと通い続けているということです。また、夏休み後は疲れが出たのか、1、2日休むことがあったようですが、その時も彼は自分で少し休んでからまた行く、と説明し、実際にそうしているということでした。
 
また教室でも自分からプリント学習を要求するようになり、本人のペースで少しずつ勉強を進めているようです。余りに目覚ましい変化に、回りの方もまるで奇跡が起こったように感じられたそうです。
 
 
こういう変化が生まれた理由を説明することは、実はさほど難しいことではありません。ある意味基本の基本に忠実だったというだけとも言えます。つまりこういうことです。
 
A君は持って生まれたエネルギーを、自分自身でさえももて余す位だったと考えられます。そういうエネルギーを持って生まれる人は、そのエネルギーをうまく使う道や方法を見つけられれば活躍されますし、それが見つからなかったり、周囲からただ押さえつけられるだけだったりすると、エネルギーが空回りして疲弊するだけになったり、うっ積したエネルギーがいつか周囲に向けて爆発したり、自分の中で激しい葛藤状態になって苦しむことになります。
 
A君が不登校状態になった根っこの原因は、多分そういうことだったろうと想像されます。そして学校は彼にとってはそのエネルギーをうまく発散して活躍できる場ではなかったようです。勉強面で活躍して認められるのは彼にはハードルが高いですし、友達との関係づくりも難しかった。先生も彼をうまく受け止められなかったのでしょう。そしてそこがただ辛いだけの場になって、もう通うことが無理になったのだと考えられます。
 
その時、この教室のスタッフの方たちは、とにかくA君のエネルギーを受け止め、関係をしっかり作り、その中で彼の気持ちに沿いながらやりとりを噛み合わせることに一生懸命になられた訳です。そうやって自分の溢れるエネルギー、思いを無条件に受け入れてくれる場の存在は、彼にとってどれほど大事な意味を持ったことでしょう。彼は学校に行くのは嫌がっても、教室にはいつも喜んで自分から通っていたそうです。つまり教室が彼にとっては自分を支えてくれる大事な「居場所」になったのですね。
 
人間とは面白いものだと感じるのですが、そうやって自分が受け止められたと感じると、今度は相手の思いを受け止めようとする気持ちが自ずと湧いてくることが多いのですね。必ずとまで言えるかどうかは分からないにしても。そして彼は自分がまた学校に通える状態になることを周囲の人たちが押し付けではなく願っていることを、言葉によってではなく、感じ取っていたのだと思います。そしてその願いに応えようとする自分を少しずつ作っていったのだと思います(※)。
 
そのような周囲の皆さんの関わりを足場にして、彼は学年が上がることをきっかけに、自分自身の判断で登校を再開します。それは強制された登校ではなく、周囲の人たちの支えを受けながら、彼自身が選びとった登校であるということに何よりの価値があります。
 
そうだからこそ、彼は頑張りすぎて疲れたときに、自分の判断でお休みし、そして「一度休んでからまた通う」と回りに説明して、実際その通りにできるという、自己コントロールの高度な力を身に付けることが可能になっています。彼にとって、教室(事業所)で不登校を責められることなく、しっかりと受け止めてもらい、その「お休み」によって気持ちを建て直し、エネルギーを蓄えてまた登校する気になった、という経験が、その自己コントロールへの見通しを確信させたのでしょう。
 
さて、こういった事例に触れる度に私が思うことがあります。ここでA君を支えて次の歩みを可能にした力は、教室の皆さんの特別な知識や技術なのではなかったということです。そこにあったのは、彼を支えたいと思うスタッフの皆さんの、人としての素朴な思いです。ですからスタッフの皆さんは、今でも正直に、自分達は特別のことをしたのではないと言います。その意味で普通の対応をした、その事こそが、彼にとっては最も重要な意味を持ったのですね。
 
もちろん不登校について豊かな対応経験のある方なら、A君の中に生まれる微妙な変化により早く気がつき、そこに上手に関わることで、再登校へのプロセスを少しは早めたかもしれません。けれどもそこで発揮されるのが単なるテクニックであったとしたら(例えば登校刺激に徐々に慣れさせていくような一種の脱感作的な方法など)、彼のように自らの意思によってしっかりと登校を選びとるような主体的な姿をどこまで実現できたかは疑問です。
 
私にとっては発達障がいへの支援の本当の足場とは何なのか、ということを改めて考えさせられる事例でした。
 
 
※ このように書くからといって、私はあらゆる子のあらゆる場合に学校に通うことを最高の価値と考えているわけではありません。例えば発達障がいと言われるエジソンがやはり学校には適応せず、自宅で母に勉強を教えられながら独自の道を歩み、電球や電話機(通常ベルがその発明者とされますが、実用化された最も重要な技術は同時期にエジソンが発明したようです)、映画機など、その後の人々の生活を大きく変えてしまうような大発明を次々に行う人になったように、その子の特性や周囲の環境で、現在の学校に通わないことがその子にとっても社会にとっても大きな意味を生み出す可能性はつねにあると思えるからです。ただA君の場合はこういう形で人々の願いを感じとり、それを自分の進み方の支えとして取り込んでいったことにとても大きな意味があったと思えます。

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