2019.10.17
文化としての手話のはなし(1)母語としての手話
聴覚障がいの方には手話を使う方が多くいらっしゃいます。今はテレビでも小さなわくの中に手話通訳者が写ることもありますし、NHKではそういう聴覚障がい者のためのニュース番組もあります。
そういう風に、今では手話は健聴者にとっても多少は日常生活に溶け込んで、その意味で「自然」な光景のひとこまになっていると思います。支援校の聾教育でも手話は使われますが、そのことに何の不思議も感じない方がほとんどではないでしょうか。
けれどもその昔、手話が聾教育の学校で厳しく禁じられた時代がありました。
友達の彼女(というかパートナー)に聴覚障がいの方がありました。その友達は健聴者でしたが、手話サークルで彼女に出会い、やがて結婚されたのですが、私も折々に彼女の話を聞いたり、時々はご本人とお会いしてお話しすることもありました。
と、ここでちょっと待て、と思う方もあったかもしれません。私は手話ができないのですが、それなのに何で聴覚障がいの彼女とお話しできたのか?ということですね。別に彼に通訳してもらったわけではありません。直接お話ししたのですし、そのときは私は普通に声で話をしました。そして彼女も声で会話していたのです。
そんなことができたのは、彼女が口話のテクニックを学んでいたからです。つまり、相手の口の動きを見て何をいっているのかを判断し、努力して声を出して答えるというテクニックです。少し想像すれば分かるように、それは大変な努力が必要なテクニックです。
まず、人の口の動きから話していることを理解するといっても、見えるのは唇の形と、時々は舌の動きがちらっと見えるくらい。音を作るのは、この他に舌の動きがとても重要で、舌先、舌の中央、舌の奥がそれぞれ口のなかでどんな位置にあるか、どんな動きをするか等によって、同じ唇の形でも出てくる音は全然変わります。ところがその舌の動きは外からはほとんど見えません。
つまり、音を判断するための大事な手がかりがたくさん欠けているなかで、相手の言うことを解釈しなければならないということです。例え話としてはこんな状態と考えられます。以下の文を読んで、意味を理解してみてください。
「ああいあ、いおいおあおおおいいあいんあええおお、ああああああいあうあ」
これは音を作る部品から、子音を全部抜いて
「わたしは、いろいろなことをいいたいんだけれども、あなたはわかりますか」
という文を母音だけで書いたものです。例としては少しは強調しすぎかもしれませんが、口の読み取りをするには、いってみれば上の文から下の意味を理解するような難しさがあるわけです。
口の形だけでは当然無理なので、そこに文脈を想像して「この文脈だとすれば、この形はこの音なのかもしれない」ということを瞬時に判断していきます。もちろん文脈の推定自体間違うこともありますし、同じ文脈でも違う単語の場合もありますから、その読み取りにはつねに「本当にそれでいいのか」という不安が伴うことになります。
それで彼女は口話の最中、ずっと相手の口に縛り付けられたかのように、ひたすら相手の口を凝視し続けなければならなくなります。友達は笑い話のように言っていたのですが、彼女とふたりで会話していると、とにかく自分のことを目を話さずにじっと見つめ続けてくれるので「彼女はわたしが好きなんだ」と「誤解」したというんですね(笑)。その誤解から本当の恋愛が始まったということでした。
このディスコミュニケーションは幸せなディスコミュニケーションだったことになりますが、なんにしても彼女は大変な思いをして人の唇を見つめ続け、しかもいくら努力しても自分の理解に自信が持てないという辛い状態に置かれていたことになります。
当然声の出し方も同じです。健聴者がしゃべるときは、自分で出した声を自分でも聞いています。そして自分の発音が適当かどうか、声の大きさや高さはどうかを判断し、つねに調節しながら話をしています。そういう調節の手がかりがない状態で声を出して話さなければなりません。皆さんもヘッドホンを着けてホワイトノイズ(シャー、というような雑音)等を鳴らして、外の音の聞き取りが出来なくなる状態で話をして見れば少しは実感できるかもしれません。ただそうしても人には「骨伝導」という仕組みがあって、出した音が骨を伝って直接聞こえることもあるので、まだ条件としては緩いかもしれませんが。
実際彼女の発音は、ちゃんと聞き取れはしましたが、健聴者のそれとは明らかに違いも感じるものでした。
彼女がそんなテクニックを大変な苦労をして身に付けたのは、お母さんの必死の教育の結果だったそうです。もともとそのお母さんは学校の先生をされていたのですが、娘に聴覚障がいがあることを知って職を棄て、ひたすら彼女の教育に力を使われたようです。
そこでは手話は教えられません。なぜなら手話が通用するのは同じく手話を話せる人とだけで、そういう人は社会の中のほんの一握りだからです。それでは彼女が大人になったときにこの社会で生きていくのに大変に不利になります。その不利を少しでも減らすために、お母さんは必死で彼女に口話を叩き込んだのです。
そのお母さんの努力が稔り、彼女は素晴らしい口話の力を獲得できました。さらに言うと、聴覚障がい者は一般の学習にも不利があり、特に抽象概念を使いこなすことが大事になる9歳前後でつまづく例が多いことが知られていましたが、彼女は易々とそれを乗り越え、いわゆる最難関大学、大学院に進んで今では聾教育で活躍されています。
と、ここまでの話であれば、障がい児が母の献身的な努力と自分のたゆまぬ努力で立派に成長してこの社会で活躍するようになった素晴らしい成功物語として、人々の称賛を受ける美談で終わるでしょう。そしてそういう一面があることも当然事実です。けれどもこの話には、障がい者の問題を考えるときにたいへんに重要な、もうひとつの面があるのです。
話は彼女が大学に入ったときに遡ります。大学には手話サークルがあり、当たり前ですがそこでは手話がコミュニケーションの手段として通用します。それまで彼女は口話を習得するために、厳しく手話を制限されていたのですが、そこで生まれて初めて手話を学び、手話で人と会話できるようになりました。その時に彼女が感じたこと、それは「生まれて初めて母語を獲得できた」ということだったそうです。
母語というのは生まれて最初に身に付く言葉で、人は母語で人との大事な繋がりを作り、母語で自分の気持ちを語り、理解して生きています。それは「私」とは切り離しても切り離せないような一体のものになっています。あとから学校等で勉強して身につける「第二言語」は、バイリンガル状態にならない限りは(※)どうしても借り物の感じになって、自分の気持ちを自然に表現したりすることが難しくなります。
もしそうなら彼女の言うことは不思議に思えます。なぜなら彼女にとっての母語は口語で、大人になって身に付けた手話は母語ではなく第二言語になると考えられるからです。なぜそういう状態なのに、彼女はその逆と感じたのでしょうか?(2に続きます)
※ 二つの言語をどちらも母語のような水準で使える状態です。小さいうちから二言語を使うような環境に育つとそうなります。稀に例外はあるようですが、母語に近い水準までレベルまで第二言語が身に付くためには小学校高学年以前に使い始める必要があるようで、これを過ぎると、どうしても「外国人が学んだ言葉」から抜けられないようです(臨界期と言います)。
- 支援者こそが障がい者との対話に学ぶ
- 「笑顔が出てくること」がなぜ支援で大事なのか?
- ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
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- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
私は以前の仕事で聾学校へお邪魔したことがあります。それは、渡した担当した子どもの中に聾学校から普通学校に入学した子どもが居たことがきっかけでした。
彼は目立たないよいうに後ろの方に座り、真剣にこちらを見ているので、真面目な子だなあと思っていました。口数は少ないのですが、目力があるなあと思っていました。話しかけてみると、しゃべり方に少し特徴があり、時々聞きづらかった。唇の動きを観察しているから強く見ていることは後から聞きました。
何度か話をしているとちぐはぐな受け答えになる時がありました。数か月後、彼は私と話すとき補聴器を机の下から恐る恐る取り出したのでした。
その時、初めて彼が聴覚障碍者だと知りました。
彼と打ち解けるようになると、聾学校に進学した友達を紹介してもらったり、小学校の文化祭に連れて行ってもらったりしました。その時、見たのは聾学校の子どもたちが鬼ごっこをしている姿でした。その間も手話による会話が続いており、なるほど母国語という山本先生の表現を読んで腑に落ちました。普段とは違った彼の顔を見ることができました。
その後、彼の誘いで英語の手話を習うことになりました。手話も文化に根差しているようで、日本の手話でも地方によって異なります。しかし、それ以上の大きな違いを感じました。
もちろん私はすぐに挫けました。この時の収穫は、聴覚障害にはHardhearing (難聴だが補聴器などの装具で音が拾える)と Def. (まったく聞こえない)の2種類があることを知りました。
女池神明さん
コメントありがとうございますす。
やはり同じことは私の友人の彼女だけではないんですね。定型発達者でも、何が正しいのか、自分で判断することができない状況に常に置かれると、同じようなことが起こるのかなと思います。
思うんですが、一方では発達障害の方たちを考えるとき、定型の常識で判断してはいけないと確信するのですが、ただ他方では、こういった気持ちの動き方とか、自己評価の大事さとか、その辺りの心の動き方にはかなり深い共通性があって、そこは共感的に理解できる可能性があるんだと思うんです。
両者の境目とかバランスが難しいですけど、じっくり考えていけばきっと何かが見えてくると思っています。
聴覚障がいにレベルがあるという話は視覚障がいでも全く同じで、全く光を感じない方からなんとなく明るさは感じられる人や、弱視の状態まで千差万別みたいですね。だから一括りにできない。発達障がいの傾向をスペクトラムで個別に一人一人理解する必要があるのも同じでしょうね。
あとワンポイント豆知識ですが、母語と母国語は別物で、母語は上に説明した通りですが、母国語は国籍を持つ国の公用語です。例えば私の朝鮮族中国人の友人は、母語は朝鮮語で、母国語は第二言語の漢語(中国語)です。
・そのお母さんの努力が稔り、彼女は素晴らしい口話の力を獲得できました。さらに言うと、聴覚障がい者は一般の学習にも不利があり、特に抽象概念を使いこなすことが大事になる9歳前後でつまづく例が多いことが知られていましたが、彼女は易々とそれを乗り越え、いわゆる最難関大学、大学院に進んで今では聾教育で活躍されています。
ICIDH の時代には、聾教育は訓練でした。いかに健聴者の社会の中で、やっていけるように教育の価値観が置かれていたように思います。
21世紀に入り、ICFの概念が一般化し、また障碍者権利条約に我が国も批准して、合理的配慮として、教育分野でも、コミュニケーションとして
の手話教育が浸透してきています。そこに訓練としてやっていくのではなく、彼らの文化を理解し、お互いに理解しあうというインクルーシブ教育
の概念に基づいたものです。わたしはこの転換期に、聾学校に勤務することができました。訓練に割く時間をもっと、教育として、社会性の向上やら、教科指導の充実やら、本来のところに時間を使い充実した生活や職業的な力をつけていくことの方が重要という考え方です。
古いタイプの教員の中には、聴能訓練や発音訓練など自立活動教員(言語聴覚士の資格と教員免許のある教員が自立活動専任として幼児聴力
検査や発音指導を自立活動や教育相談で個別取り出しとして行っている。)として、聴覚口話法といておこなっていることもある意味重要ですが。
手話を活用することで、多様なコミュニケーションを生み出せると考えています。
湖西さん
コメントをありがとうございます。その二つの考え方の転換期をご自身で体験されたんですね!言わば歴史の生き証人?
多様なコミュニケーションの力って大事ですよね。最近富みにそう感じます。