はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.11.24

ディスコミュニケーション(3)裁判官と心理学者

私はこれまで心理学のかなりいろいろなテーマでの研究をしてきましたが、それらに共通するポイント、背景となる視点は何かというと、つまるところ「お互い理解が困難なもの同士、どうやって一緒に生きていけるのか?」という問題だと言えます。その問題を考える視点が「ディスコミュニケーション」で、その理論的な分析の概念としてEMSがあることになります。ここでも発達障がいの問題を発達障がい者と定型発達者の間に生ずるディスコミュニケーションという視点から考え続けています。
 
今回ご紹介するのは、その視点を裁判官と心理学者の「供述」をめぐる理解の仕方について応用した話です。
 
冤罪の可能性が問題になる事件で、心理学者として素朴に判決を読んでいると、ある供述(自白とか証言とか)が本当のことを言っているか、ウソを言っているか、といった評価について、びっくりするような判断が書かれていることがしばしばあります。かりそめにも心理現象についてデータに基づいて分析する訓練を受けてきた目で見ると、データ(供述)の評価の仕方に論理性が全然ない、でたらめな恣意的判断としか言えないものが散見されるのです。
 
問題は日本に限られません。アメリカではDNA分析の手法(遺伝子を読み取って、犯人が残したものと、被疑者のそれが同一かどうかを判断する方法)で過去の事件を調べなおし、冤罪を明らかにする「イノセンス・プロジェクト」というのがありますが、それで冤罪が明らかになった事件が351件、うち死刑が確定していた事件が20件という恐ろしさです。(立命館大の日本イノセンス・プロジェクトをやっている稲葉光行さんによる簡単な紹介がこちらにあります)
 
日本でDNA鑑定で冤罪が晴らされた有名な事件は足利事件で、連続幼女殺人事件のうちの一件の犯人として取り調べを受け、その日のうちに自白をしてしまった菅谷さんが、のちに裁判で無実を訴え続けたのですが全く無視されて有罪となった事件です。不幸中の幸いで死刑になることはなく、のちにDNA再鑑定で無実が証明されて大問題になった事件です。
 
実はこの事件でも「ディスコミュニケーション」の本を私と共編した高木光太郎さんたちが、菅谷さんの法廷での自白段階の供述と、自白を撤回した後の段階の供述を比較して分析し、両者の語り方が全く異なっていることから自白の信用性に強い疑問を投げかける鑑定を行っていましたが、それは全く無視されていました。
 
帝銀事件や名張毒ぶどう酒事件など、冤罪が強く疑われて再審を繰り返しているうちに、死刑囚として収監されたまま獄中で亡くなったかたや、袴田事件のように拘禁反応による重篤な精神病に陥ってしまっている人、再審請求中なのに処刑されてしまった人など、悲惨な展開の事件は少なくありません。
 
なぜそういう無残な出来事が繰り返されるのか。その一つの原因は「自白」にあります。それらの冤罪が強く疑われる事件はだいたい取り調べの過程で一度自白をしているのです。中には菅谷さんのように公判段階でも最初は自白を維持していた人さえいます。
 
そして「自分が死刑になるかもしれないような事件で、ウソの自白をするはずがない」という強い信念を持つ裁判官が多いようです。
 
客員研究員の浜田寿美男さんは、もともとの専門であった発達心理学の世界でも、若いころにピアジェの「知能の誕生」など、重要な海外文献を翻訳されたり、その後画期的な自閉症論を展開されたりしているほか、自白供述を徹底的に分析する独自の手法を編み出し、「自白が実際の体験に基づいたものとは考えられない」(つまりウソを語っている)兆候を判別し、かつどのようにしてそのようなウソの自白が作られていくのかを明らかにする画期的な研究を行われた人でもあります。
 
つまり「自分が死刑になるかもしれないような事件で、ウソの自白をするはずがない」という裁判官の思い込みは通用しないということがそれらの分析で見えてくるのです。
 
でもなぜいまだに裁判官にはそういう思い込みを持っていると思われる人が少なくないのか。また上に書いたようにほとんど論理性がないような供述評価を平気で書く裁判官がなぜ多いのか。なぜ心理学者の、ある意味素朴な話が裁判官に通じにくいのか。
 
その仕組みを私もディスコミュニケーション分析の視点から議論をしてきました。昨年の法と心理学会のワークショップでは、やはり今の裁判の事実認定の仕方に疑問を持つ元裁判官の石塚さんとその問題について議論して、その内容を判例時報という、裁判官や検察官が読む雑誌からの依頼で論文化しました(※)。
 
それも一つの機縁となって、20周年記念となる今年の法と心理学会では、高木光太郎さんたちが企画した20周年記念大会シンポジウムで石塚さんも元裁判官の立場から重要な発言をされ、また会場からは現役の高裁判事の方も発言されるなど、ようやく心理学者と裁判官の間でまともな対話が行える状況が生まれてきました。
 
その場で私もずっとディスコミュニケーションについて考え続けてきた研究者としてコメントを最後に求められましたが、同じ資料を見ても同じ結論が出ない、見方がずれる、ディスコミュニケーションの在り方を分析して検討しなおすことが重要だ、という理解がかなり広まっていたように思います。
 
ズレの一つは先ほど述べたような「無実の人間が自白するはずがない」という見方と、「状況次第で人はウソの自白もするのだ」という見方ですが、なぜそのような見方のズレが生まれるのか、大変に大きな問題です。
 
またやはり先に述べたような「判決に示された供述評価が全然論理的でない(証明になっていない)」という問題については、石塚さんとの共著論文(※)の中で、石塚さんがそうなる理由を教えてくださっています。簡単に言うと、その理由の一つは、判決の文章は裁判官の本当の判断理由を書いていないことがあるから、ということです。でもなぜそういうある意味で不誠実ともいえることが裁判官の世界では当然のこととして受け止められているのか。これも大問題です。
 
法は死刑という形で人の命を奪う力を持っています。裁判官はそれを決定する役割を持っていて、その決定の理由が判決文です。当然、心理学者を含む人々の素朴な疑問に答えられる内容である必要があります。帝銀事件は事件発生からすでに71年。死刑囚平沢貞通さんが獄中死してから32年もたち、それでも今も再審を求める声がやまず、実に20回目の再審請求が行われています。資料を読んでいただければわかると思いますが、それほど信じがたいような判断が裁判所によって下され、維持されています。なぜそんなことが起こるのか。
 
お互いの見方、考え方に潜むディスコミュニケーションの形を心理学者と裁判官の対話の中で明らかにしていく可能性が、少し見え始めたかもしれないと感じる今回の法と心理学会でした。
 
 

※ 山本登志哉・石塚章夫 2019 供述評価をめぐる心理学者と裁判官のディスコミュニケーション:何が、何故ずれるのか 判例時報2396 125-134 判例時報社
 

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