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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.12.02

困った行動の受け止め

これも若いころの経験です。

その時私はバスの一番後ろの座席に座っていました。すぐ隣には、ニキビ面の若い男性が座っていました。

しばらくすると隣でなにやらごそごそしているので、ふと見ると、その青年が自分のものを取り出して、いじりだしているのでした。

その時、私はほとんど何も考えることなく、「それはだめ!」と声を掛けました。するとその青年はすぐにズボンの中にしまいました。

それから、二人とも、何事もなかったようにバスに乗り続けることになりました。

声をかけた後に、私は自分で自分が可笑しくなりました。普通なら(?)まずは相当動揺して、身を引くなどしたあと、逃げるか激しく叱責するか、そんな展開になりそうな場面でした。少なくともどうしていいか困惑して当然でしょう。仮に私が若い女の子なら「キャー!」と叫んでバスの中が騒然とし、下手をすると警察沙汰になっていたかもしれません。

でもほんとに何も考えることなく、ほとんど反射的に「だめ!」といって、それで収まってしまいました。

これはもちろん相手の人に依ります。彼の表情や体の動き、息遣いなどから、私はその青年がかなり知的な遅れを伴った人であると感じていました。それであくまで直観的にですが、その彼の行動が危険なものではなく、単に状況に合わせた自己コントロールを自律的にできない段階にあるだけだと思ったのですね。

年齢的にも性的な関心や欲望は強いはずですが、それにどう自分自身が対処したらいいかはわからない。親などの目があれば、その親の目にコントロールされる形で「適切なふるまい」の範囲で行動はできるけれど、親の目がないところでは自分自身で同じコントロールができるところまでは至っていない。場合によってはこれ以前にそういう行動で回りが騒ぐことを見てそのことにある種の興奮を覚えたのかもしれません。

逆に言えば、その場に親の目の代わりに適切な指示をしてあげる人がいれば、それで収まる可能性が高かったわけです。直観的に私はそう感じて、ほとんど何も考えずに「だめ!」と言ったわけですね。そして実際その直観は当たっていたようです。

そういう社会的な環境の中での自己コントロールの基本的な発達について、私は共同研究者との議論を経てのちに「EMS(拡張された媒介構造)」の発達過程として理論化していくことになりますが、この時期はまだそういう理論化までは全く遠いころでしたので、保育園や幼稚園での観察、パートの保父としての体験、施設での嘱託の発達相談員としての経験などから、感覚的にそういうことをなんとなくつかんでいたのでしょう。

こういう事例でもやはり思うのですが、発達障がいの子どもを見るとき、こちらの目で見て「困った行動」と見るだけでは本当に障がい者との適切な付き合い方ができません。こちらから見て「困った行動」が、果たしてその人自身にとってどういう意味を持っているのかということの理解が大事になります。

発達障がいの場合は、その子の発達段階から見てその子自身がその行動を「困った行動」と理解したうえで、あえてそうしているのか、それともまだその意識を持てない段階でそうしているのか、によって、適切な対応は全く変わります。

文化差の場合は、自分の文化から見て「困った行動」であったとしても、その人が生きている文化社会の中でもそれが「困った行動」と考えられているかどうかによって、お互いの関係調整の仕方は全く変わります。

いずれの場合も、その人自身が「困った行動」と思っている場合には、その基準に基づいて、その「困った行動」を修正していくための関りが必要になります。

けれどもそうでない場合は、その人の理解の仕方を認めたうえで、こちらの見方と折り合いをつける道を探る必要があるわけです。

あの青年に対する私のとっさの反応は、そういう意味では彼自身がそれを「困った行動」と感じられる入り口位に来ていたことで、それを支えるような働きかけになったのだろうと思います。

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