2019.12.09
支援と応援
発達障がい児・者を「発達障がいという特性を持ちながら主体的に生きていく人」と理解し、同時に定型発達者を「定型発達という特性を持ちながら主体的に生きていく人」と理解し、その「主体的に生きていく者」同士がお互いの間に生まれやすい困難を調整して生きていく道を探る、というのが私の発達障がいの問題を考える際のスタンスです。その視点から「支援」と「応援」という言葉について考えてみたいと思います。
発達障がい児の困難への対処の仕方を表す言葉には色々なものがあります。
例えば「困った行動」を「止めさせる」、「適切な行動」を「身に付けさせる」という視点から見ると、「矯正」という言い方があります。
もう少し緩やかに、「緩和する」というニュアンスなら「治療」という言葉になるかもしれません。
「導き教える」という感じなら「指導」とか「教育」でしょうか。
「治療」と「教育」を合わせると「療育」になります。
さらに最近は「支援」という言い方が増えているように思います。
矯正、治療、指導・教育、療育、支援と並べてみましたが、この順にニュアンスがある方向に変化しているように感じられないでしょうか?
私の感覚では、最初の方ほど「大人の基準にあわせて行動する」ことに焦点があたる傾向が強く、主体は大人になります。それに対してあとになるほど「子ども」を主体として考える傾向が強くなります。「支援」というのは、子どもが困難を主体的に克服していけることを支えるといったニュアンスでしょうし。
そういうニュアンスの強さから考えてみると以下のようになるでしょう。
【大人主体】 矯正 > 治療 > 指導=教育 > 療育 > 支援 【子ども主体】
問題の深刻さや特に緊急性の度合い、利用できる環境の豊かさの違いによって、どの面が強調されるかは異なってきますので、単純に良し悪しを決定出ませんが、私個人は条件があれば可能な限り後の方を目指したいと思っています。
というのは、最初に書いたように、発達障がいを「その人が持つ個性(特性)」と見て、その人なりにその人に合った生き方を模索できることが大事だと思うからです。
それは発達障がい者だけではなく、すべての人にとって大事なことです。そしてその点では「障がい」の有無で区別はないと思います。「違い」を何らかの意味で「上下関係」として捉えるのではなく、それぞれ生まれながらに持った条件から生まれる「生き方の差」としてとらえること。
そういうと、こんな疑問も生まれるかもしれません。「そんなこと言ったって、能力の差は否定しようもないじゃないか。福祉は結局余裕のある強い者が余裕のない弱い者にしてあげる、ということなんだ。そこには平等はない。平等じゃないから福祉が成り立つんだ」
この考え方から「支援」を行った場合、現実にこういう問題が起こってきます。つまり、発達障がい者に対して「配慮」するのは「定型」の側で、発達障がい者はその「配慮」や「思いやり」に対して「感謝」しなければならない。そういう姿勢が無意識のうちに「支援者」の側に生まれていくということです(※)。
そうすると、ディスコミュニケーションの仕組みによって、「支援者」の側は善意でやっている「支援」が、「発達障がい者」にとっては自分を苦しめるだけになってしまうことがあります。そこで障がい者の側が耐えられなくなって抗議をすることがある。そうすると支援者側が無意識に上のような姿勢を持っている場合、しばしば「支援されているくせに、感謝もせずになにごとだ!」という怒りを持つことがあります。
そして支援者側がそういう姿勢を示すと、今度は抗議をする発達障がい者の側が「配慮などと言って、結局きれいごとで、という上から目線の自己満足の行為で、根っこは差別じゃないか」と激しく憤慨する、ということにもなる。
こういうの、いわゆる社会的弱者と強者の間ではいろんなところでしばしば起こる不幸な葛藤です。
この問題も少しずつ考えていきたいのですが、こういう不幸な葛藤を克服するうえで、「支援」からさらに「応援」という考え方への展開が意味があるのではないか、ということをちょっと考え始めています。
「支援」というのは立場の強いものが弱い者の弱さを補ってあげる、というニュアンスがあります。資源があるものがないものに、という言い方でもいいでしょう。「被災地支援」というときは、被災していない、その意味で有利な立場にある人が、被災して困難に直面している人の生活を補うことです。そこに「補ってあげる」というニュアンスが忍び込む可能性もある。
これに対して「応援」という言葉には「不足を補ってあげる」というニュアンスを私はあまり感じません。「野球の応援」とか、別に自分が相手の「不足」を補っているわけではないですよね。むしろ「頑張っている人(たち)を力づけようとする」みたいな感じです。
もちろん「応援」の場合は「応援」される人があくまで主体です。その人がその人なりに「頑張る」ということがベースにあって、その頑張っている姿に共感したり感動した側が、それを自発的に「応援」するわけです。そこには上下関係はありませんし、逆にその人の頑張っている姿に応援している側が「力づけられ」たりもします。そうなると、「感謝」するのはむしろ応援をしている側だったりします。
「支援」から「応援」への発展によって、「障がい者も含めたお互いの主体性」を基本とした共生の関係が、「差」を前提にして平等に支えあう「共生」により近づくのではないか、そんな気がしています。
※ 私はコミュニケーションを「交換」という視点から考えていて、この交換がお互いにとってバランスの取れたものでなければ、そのコミュニケーションは成り立たないと考えています。支援もまたそういうコミュニケーションの一つです。この視点からすると「支援をする側」が「される側」との間に次のようなバランスを作ろうとしていることがわかります。
【支援をする側】自分の資源(時間・お金・労力など)を相手に与える人
【支援をされる側】感謝の気持ちでそれに応える(感謝の気持ちを相手に与える)人
そしてこのような交換によって自分が自分の資源を相手に与えるということが「無償」の「自己犠牲」に終わらず、「感謝されていい気持ちになる」という形で「有償」になると思えることで、バランスが取れるという気持ちの持ち方です。ですから、「感謝」という「見返り」がないどころか、相手に責められることで、激しい怒りが生み出されることにもなります。
後半に挙げた「応援」の考え方では、ここはこういう風な別のタイプの交換が成立することになります。
【応援をされる側】自分の頑張っている姿で相手に感動を与える人
【応援をする側】相手に与えられた感動に対して、自分の資源(時間・お金・労力など)を相手に与える人
応援をする側がこのスタンスが取れる場合は、自分はすでに相手から「もらっている」立場なので、すでに「無償」ではありません。ですから「相手が感謝しない」といって怒る必要もなくなります。
もちろん後者の方が対人関係の作り方としてはより高度なもので、たとえば意志のやりとりもむつかしい重度の障がい者との関係で「そこにいてくれるだけで自分の支えになる」と感じられるようなレベルの、一種の「悟り」にも近い関係が成り立つ必要があります。(とはいえ、障がい者を抱える家族にはそういう思いになる方も確実にいらっしゃいますね)
共同研究者の片成男さんに教えてもらった一休話ですが、一休さんが乞食に何かをめぐんであげたところ、乞食は全然お礼も言わない。一休さんが面白く思ってなぜお礼を言わないのかを尋ねたところ、乞食は「お前は恵んだことで自分はいいことをしたという気持ちになっただろう。それで十分じゃないか。さらにお礼まで要求するのか?」それを聞いて一休さんはなるほどと納得したとか。これも似た話ですね。
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