2019.12.27
唯一の正解がない理由
福祉などに携わる方がよく言う言葉に「唯一の正解なんてない」という言葉があります。療育支援ももちろん同じで、いつまでたっても模索の連続です。
でもなんで、「唯一の正解」がないのでしょうか?
一つの考え方は、「発達障がいについては今もわからないことだらけなので、<まだ>正解が見えてこないのだ」というものでしょう。これから頑張って研究していったり、実践を積み重ねていけば、いつか「正解」にたどりつける、そういう期待がそこから出てくることになります。
さて、仮にそういう考え方で進めてみましょう。今は「どうすることが正解か」ということはわからなくて、模索の過程だとしても、「どういう風になったら正解と言えるのか」ということはわかるでしょうか。もし「こうなったら正解だ」ということがわかっていなければ、模索をいくら続けても、その結果を「正解」として評価できないわけですから、意味がありません。それは「正解がない」ということと同じになってしまいます。
そうすると、たとえばこんな考え方がありうるでしょう。「将来すごい薬が発明されたり、脳の手術、あるいは特殊な訓練法によって、定型と同じになること」が「正解」だという考え方です(※)。いつのことかは別として、そういうことが絶対にないとは断言することはできません。実際には実現可能性が見えにくいとしても、仮に発達障がいが「もし」脳の機能障害としてすべて理解できるのだとすれば、脳の機能を定型のように働かせる工夫がみつかれば、それが「正解」とされるようになるかもしれないからです。
それがかなり乱暴で無理のある仮定だということにはここでは目をつぶって、仮にそうやって世の中みんな定型発達者になったとしましょう。全員が定型発達者の世界で、私たちが生きていくことになります。さて、それで「定型発達者になる」という正解が達成されたので、もう何も問題はないでしょうか?もちろんそんなことはありません。やはり定型発達者として「どう育てていくのが正解なのか」という問題が起こるでしょう。「正しい子育て」ですね。あるいは大人であれば「正解の生き方」でしょうか。
もし自分が「あなたの生き方は正解ですか?」と尋ねられたらどうでしょう?「まあまあじゃないですか」と答えるかもしれません。数はたぶんそれほど多くないでしょうが、「私はばっちり正解ですね」と思うかもしれません。「完全に不正解」と考える人もそれほど多くないでしょう。そう思うのはつらすぎますし。がん患者を対象とした昔の心理学の研究でもそういうのがありましたが、だいたいの患者は「自分はほかの人よりはうまくやっている」と考えていたそうです。たしかアメリカのデータなので、日本では少し違う可能性もないではありませんが、自分を「悲惨」と思うのを避けようとする心理的な傾向があることはまず間違いないことです。
まあ自分でどう評価するかについては、それぞれでしょうが、仮に自分がどう思うかは関係なく、ほかの人(たち)から、「あなたの生き方の正解度は50だ」とか「20だ」とか「80だ」と決めつけられたらどうでしょう?まあいい点数を与えられたら悪い気はしないでしょうけれど、基本的には「何を根拠に勝手に決めつける!」と思わないでしょうか。「ほっといてくれよ」と。
何が正解の生き方なのか、と考えてみると、まあ無理やり答えをひねり出したとすれば「幸せに生きているか」ということかもしれません。これならそんなに大きな反論は出てきにくいでしょうし。もちろん自分の幸せを犠牲にして何かを達成することが最大の価値とする方なら異論はあるかもしれませんけど、その人の場合はその価値を達成することが幸せだと、ちょっと逆説的ですが、そう言えなくもありません。
そうすると「正解の生き方」というのは「幸せな生き方」なわけですから、「幸せとは何か」が問題になります。と、ここでやっぱり唯一の正解がなくなるわけです。何が幸せなんて、その人人によって違うじゃないですか。
また少し極端な話をします。個人的にはどうしても感覚的に受け入れがたいところがあるのですが、南米の昔の文明で、太陽をよみがえらせるためになどとして、人をいけにえにするということがたくさんあったようですね。いろんな形態があったようですが、大人に限らずたくさんの子どもがミイラ化して発見されたりもしています。
いけにえの決め方で驚いたのは、サッカーのような競技をして決めるやり方ですが、負けた方がいけにえになるのではありません。勝った方がいけにえになるというのです。つまり、いけにえになるのはその人たちにとって誇りであり、たぶんその人たちの価値観の中では幸せということだったということになるのでしょう。
もちろん何も大きなことがない、おだやかな日々の暮らしこそが幸せと感じる方もあります。メーテルリンクの「青い鳥」じゃないですが、幸せは特別のことではなく、ほんの些細なことに見出されることでもあります。「僕は僕なんだから」のお母さんも「今まで当然と思っていたことが、すべて当たり前じゃないことに気づかされ、ささやかなことにも心から幸せを感じるようになった」と語られています。
どういう条件があると、人が幸せを感じやすいか、ということは大量のデータをとって数学的に(多変量解析)分析すれば、その「要因」をある程度取り出せるかもしれません。けれどもそれで「客観的に幸福感が決まる」などと考えたら、これはずっこけですよね。そういうのは単に「そういう人が多い」というだけのことで、その条件がそろったらみんな幸福を感じるわけではない。
結局幸せはその人が人々の中で生きていく中で、それぞれ探していくしかないわけです。そこに唯一の正解はない。
と、考えてくると、結局療育支援も同じことにならないでしょうか。というのは療育支援の最終的な目的は、その子がその子なりに生きていけるように、そして可能な限り幸せに生きていけるように応援することだと思うからです。
「障がい」=「不幸」ということももちろんありません。「僕は僕なんだから」と小3の時に語った彼の今に触れて、それが定型の自分と比べて不幸だなどとはおよそ感じられません。今彼はいよいよ一人暮らしに自ら挑戦を始めているようですが、その頑張ろうとする姿に、彼なりの誇りと幸せを感じ取れるように思います。
生きるということはだれにとっても終わりのない模索の連続。その都度のその人自身の意味付けの中にその人の幸せが見いだされる。これが私が考える「療育支援に唯一の正解がない」理由です。
※ この「正解」には、遺伝的多様性の重要性についての視点が不足しがちなので、本当は大きな問題で、その考え方により、別のより深刻な問題が発生する可能性も含んでいるのですが、その話は今は置いておきます。
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
投稿はありません