はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.12.25

生きる理屈

赤木和重さんの本「ユーモア的即興から生まれる表現の創発」を読んで、少し赤木さんとやり取りをさせていただいていて、学びリンクから頼まれた私のインタビューを読んでくださった赤木さんが「(発達障がい者)が生きる理屈」という言葉でその感想を送ってくださいました。

この言葉、私にはかなりしっくりくるものです。まあ、自分のインタビューへの感想で書いてくださった言葉なので、当たり前と言えば当たり前なのですが(笑)、うまくポイントを言葉にしてくださったというか。

私がこの仕事をやっていて、常に気になって考えてきていることが「何のための療育支援なの?」ということです。「何を目指しているの?」という言葉で言い換えても構いません。

赤木さんは本の「はじめに」の冒頭で、「特別支援教育へのモヤモヤ」という節を設けて、関連する学会や研究会などでしばしば感じる三つのモヤモヤを書かれています。一つ目は「計画通りの実践が大事にされすぎている」こと。二つ目は「つまらないところ」、「ワクワクしない」こと。そして、三つめは「教育目標が『スキル』や『能力』に焦点化されていること」です。

詳しくは本でお読みいただければと思いますが、私の感じでは、この三つは全部つながっていて、それは「型の重視」という風にも表現できそうです。

「計画通りの実践」というのは、計画という、あらかじめ決められた「型」に子どもをはめ込んでいく実践とも言えます。「型にはまる」ということは、別の言い方をすれば「型をはみ出ない」ことですから、そこには受け身の姿勢が強く、自分で作っていく創造的な姿が見えにくくなります。つまりは人の生き生きとした姿が感じられない、わくわく感のないつまらないことになっていくわけです。そしてスキルや能力というのもまた型のひとつなのですね。

この最後のスキルや能力が型だということについては、少し説明が必要でしょう。

型というのは、言い換えれば枠組みという言い方でも表現できます。形式と言ってもいいでしょう。鋳型という言葉もありますが、型はそれだけでは意味がありません。その中に何かを入れるためのものです。それは目的ではなく、手段なのです。

そこで次にスキルや能力の話です。たとえばハサミを使って切るというのはスキルの一つです。足し算ができるようになるのもスキルです。英語が話せるようになるのは能力の一つです。速く走れるのも能力です。

でも、たとえばハサミで切るというスキルは、それだけでは何の意味もありません。たとえばそれで必要な長さにひもを切るとか、切り絵を作れるとか、そういう「目的」とセットになって初めて意味のあることです。英語が話せるようになっても、やはりそれだけでは何の意味もありません。それを実際に使って自分にとって必要な何か(目的)を実現するツールとして使えるときにはじめてそれは意味が出てきます。

手段は目的と共にあって初めて意味が生まれてくる。つまり目的のわからないスキルや能力の強調は、内容のない「型」なのです。もちろんそこで問題になる「目的」は、子ども自身に感じられるもののことで、大人が「これが目的だ」と感じているだけでは足りません。

目的がわからない苦行は人をただ苦しめるだけになります。苦しい修行に耐えられるのは目的が感じられるからです。たとえばこんな話があります。

ナチスの収容所に入れられていたユダヤ人の人たちに行われた拷問のうち、最もつらいもののひとつは穴掘りだったと言います。たんなる穴掘りではありません。まず穴を深く掘らせる。そして掘り終わったらまた埋め戻させる。埋め戻したらまた掘らせる。その繰り返しを延々とさせるのです。

たとえ奴隷のように土木作業に強制的に従事させられる場合でも、その穴掘りが、運河づくりなど何かの「目的」に従ってやらされているのであれば、体の辛さは当然あるでしょうが、それだけで精神的に参ってしまうことはあまりない。ところがこの意味のない穴掘り=埋め戻しの繰り返しは、人の精神を参らせてしまう大変な拷問になるのです。

目的がわからない、内容を感じられない「空っぽの型」の強制は、人の心を削っていってしまうのですね。

ということを一応の前提として、次の問題に進みます。

自閉症の特徴として、「こだわり」がよく語られます。たとえばR君の積み木の話でも典型的にみられるように、カナータイプのお子さんにしばしば見られますが、積み木やミニカーなどをひたすら一列に並べてみている。ちょっとでも列が乱れるのを嫌う。そういうのが「こだわり」と見られます。

なぜそれが「こだわり」と表現されるかと言えば、周りから見ていて「意味が分からない」からでしょう。その証拠に、たとえばレンガをきれいに一列に並べて積み上げ、乱れるのを嫌う職人を見て、否定的な意味で「こだわり」とは普通表現しません。それは立派なことと見られます。意味が分かるからで、見ている人がそこに価値を感じられるからです。そこがカナータイプのお子さんの積み木ならべと大きく異なるところです。

ではなぜそのお子さんの積み木ならべに私たちは「意味」を感じられないのでしょうか?少し視点を変えていえば、そのお子さん自身は「意味」を感じていないのでしょうか?

少なくともその子にとって「きれいに並んでいる」ということは、なにか「意味」があるはずです。そういう状態にその子はなにかの「価値」を感じていることは間違いありません。なぜならそれが崩れることを許せないと感じているからです。その状態を「理想」として感じている気持ちがそこに見られます。

R君の場合は、どうやらその後の展開を見ても、それは「列車」を再現しているようでした。積み木を列車に見立て、その見え方を楽しんでいるのです。見立てをしているようには考えられない場合もあり得ますが、その場合も「きれいに並ぶ」という状態に一種の美しさを感じている可能性もあります(※)。美しく並んでいるものを見て、心が安らいでいるのかもしれません。自分に理解可能なわかりやすい秩序を積み木で作って、安心しているのかもしれません。何かは私にはよくわかりませんが、でもその真剣さを見れば、それはその子にとって確かに「意味のある」ことなのです。

さて、赤木さんのお話では、ただ「型」にはめるような見方、アプローチはどうもモヤモヤするものでした。私も同じ思いです。ところがここでちょっと矛盾が起こります。自閉の子の「こだわり」は、見方によっては自ら「型にはまっている」ようにも見えます。そうすると、「型にはまってつまらない」その自閉の子の行動に対しては、「型を崩す」働きかけが必要なのでしょうか?でもその子が一生懸命「こだわっている」ことを、外から強制的に崩すのも、その子を否定しているようでなにかおかしく感じられます。

この一見したところ矛盾に見えることを解くカギが「生きる理屈」なのだ、というのが今回の結論です。つまりこういうことです。

先に書いたように、自閉の子の振る舞いが「こだわり」に見えるのは、「意味がわからない」からでしょう。意味がないから「型」にはまっていて、豊かではない、と感じる。でも少し立ち止まって素直に子どもの振る舞いを見てみると、そこで「意味がわからない」と感じているのは、こちらの方であって、それをやっている本人にとっては「意味がある」のだと思えてくるわけです。

ではその子にとっては「意味」があるだろうに、それをこちらが理解し共有できない(できにくい)のはなぜでしょう?

それはつまり、物の見方、感じ方にかなり根深いところで違いがあるからです。だからその子が感じていることがこちらに伝わってきにくい。その「意味」を理解しにくくなるのです。

そして人は自分が感じる「意味」に沿って行動しようとします。その人にとって「意味」のあることはし、「意味」のないことはしない(※※)。そうやって自分の「意味ある世界」を作り上げていきます。そこにその人なりの「生きる理屈」が作られていく。

そしてこの「物の見方、感じ方」が違うということは、その人にとって何が意味があり、何が意味がないのか、ということも違ってくるわけですから、そこで作られる「生きる理屈」(生き方とか、大きく言えば価値観、人生観といってもいいです)もまた変わっていくわけです。

これからの療育支援は、この「その子にとっての生きる理屈」を大事に探りながら行われることが重要だと私は考えています。発達障がいの人が苦しむのは、自分にとっては無理な、あるいは不自然な理屈を押し付けられ続けるからで、それが二次障がいを生んでいきます。

定型社会で生きていくには、定型的な理屈を「形だけ」でもある程度身につけざるを得ないところがあります。そうしないとこの社会で生きていけなくなるからです。でもそれは自分なりの理屈を失う形になってしまってはいけないでしょう。それではその人らしく生きることが否定されてしまいます。その人にとって無理なく、自然に感じられる生き方を基本的には肯定されながら、ただこの社会で生きていくために折り合いをつけていく部分を模索し、増やしていくという形が必要なのだと思います。

療育支援の目標は、そのような折り合い方を探していくこと。それが意味の分からない「型」に押し込まれて自分の価値を見失い、自分なりの幸せを探す道を妨げられることを防ぐことにつながっていくのだと思います。

 
※ そういう美しさの感覚は、たとえば幾何模様などで私たちも感じることができます。モスクなど、イスラーム文化でしばしば見られる幾何模様の美しさはなんとも言えません。また、私は苦手でだめですが、数学者などは数式の美しさに感動することもあるようです。アインシュタインは E=mc^2 といったものすごく簡単な式で、宇宙を支配している質量とエネルギーの関係を定式化したわけですが、この複雑な宇宙の重要な性質がこの簡単な式であらわされるといわれると、その意味がよくわからない私でも(笑)、たしかにある種の感動の気持ちをいだいたりもします。シンプルな形の美しさは、いろんなところに見出せるものです。もっと身近で素朴な例を挙げれば、洗濯ものをきれいにたたむ、ということだって、別に不必要なこだわりだと言えなくもない。でもきれいにたたまれて並んだ服は、ある種の喜び、心地よさを呼び起こすものです。

※※ ABAの基礎理論である条件付け学習理論にあえて当てはめていえば、ここでいう意味は「賞」と「罰」といった強化子による強化のプロセスのことになります。ただ、人間の場合の「意味」は非常に複雑に作られていくので、その議論だけではうまくとらえられなくなります。この点はまたおいおい考えてみましょう。

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コメント欄(コメントは団体会員と個人会員Aの方が可能)

  1. 515 大内雅登 515 大内雅登

    長男の3歳児健診で、発達検査を勧められました。
    理由は「あまりにも小さな声」と「壁の同じ高さをじっと見ながら部屋を歩き回ること」でした。
    私からすれば、保健師さんの問いかけが小さな声であったため、息子がそれに合わそうとしただけなのと、上の例と同じかもしれませんが、電車が大好きな息子が、車窓を再現するかのように遊んでいるだけなんです。
    これは意味が分かった気になったから検査を受けなかったという話でして、当事者のお子様が必要な検査を受けずにいる一因かもと思っています。

    ちなみに電車好きの長男は、上野の高校の運輸科を受験し、合格したのちに電車熱が変に落ち着き、地元の高校へと進学しました。
    曰く「僕が簡単に受かるレベルだと大したことない」
    受かったら辞退しなくてはならない変な理屈を堂々と話している姿に、親としては検査を受けていても良かったのかなぁと考え込んでいます。

  2. やまもと やまもと

    大内さん

     コメント感謝です。
     大内さんが以下のようにお子さんの行動をいとも容易く読み解かれることにまたもや驚愕です。

    「保健師さんの問いかけが小さな声であったため、息子がそれに合わそうとしただけなのと、上の例と同じかもしれませんが、電車が大好きな息子が、車窓を再現するかのように遊んでいるだけ」

     おそらく私だけではなく、定型的な思考パターンを持つ人は大部分、この発想にたどり着くことはすごく困難だろうと思います。

    「あまりにも小さな声」なのは、「保健師さんの問いかけが小さな声であったから」という理由を思いつきにくいわけはなんだろう?と考えてみるのですが、ひとつ考えられることは「小さい声」というのは「緊張している」か、あるいは「答えたくない」気持ちの状態を表すというふうに受け取ることが多いからだろうという気がします。つまり、相手とのスムーズなコミュニケーションに対して否定的な態度になっている、という解釈を自然にしてしまうのではないかと思うわけです。

     それに対して大内さんはごく自然に「相手に合わせた」という、つまりコミュニケーションへの積極的な姿勢をそこに感じとったように読めたのですね。まあ、大内さんの説明についての私の解釈もずれている可能性があるわけですが、少なくとも私にはそれらは「二つの対極的な解釈」に見えてしまうために、およそそういう(自分とは正反対の)解釈がそもそも可能性の一つとしても思いつきにくい、と言うことになるのだろうと思います。

     「壁の同じ高さをじっと見ながら部屋を歩き回ること」を「車窓を再現するかのように遊んでいる」と解釈するのも私にはかなり難易度の高いものに感じられます。これはつまり、「車窓から見てる」景色は「同じ高さ」で移りすぎていくものだから、という感じなのでしょうか?仮にそうだとして、定型の典型的な子がそれを再現するときには、自分の振る舞いが「列車に乗って景色を見ている状態」だということを、なにかほかの手掛かりでも同時に再現するような気がします。たとえば「がたんがたん、がたんがたん」と言いながら同じようにふるまうとか。

     これはもう仮説の仮説という感じですが、定型の典型的な見立て遊びの仕方は、自分の振る舞いが他者から見て同じような意味を共有できるような振る舞いになっているか、ということを、ほぼ無意識のうちに重視して、その枠組みは崩さないように「自分と相手に対してその状況を再現している」のに対して、お子さんの場合は「自分に見えている世界」に集中して、それを「自分に対して再現している」というふうに仮に対比させてみると、とりあえずはややわかったような気にもなります。同じ枠組みでR君の「列車の見立て」についても考えられそうにも思います。

     私がそれでもR君の積み木に対して「列車」という解釈に比較的楽にたどり着けたのは、「寝っ転がって見る」「キーといった効果音を加えている」など、複数のてがかりがあったことと、もうひとつは「僕は僕なんだから」の彼が、ベルトコンベアーの音を電車の停車音に聞いた、というエピソードを教えてもらっていて、それが「予備知識」として働いたからだろうという気がします。けれども私にとっては息子さんのその遊びぶりについては、そういうほかの手掛かりが見いだせない中で、「壁の同じ高さをじっと見ながら部屋を歩き回る」状態が示されるにとどまったわけです。

     というわけで、その行動の「意味」をよみとりにくいわけですね。

     ところがです。ここでまた話がひっくり返るのですが、この言い方だと、「息子さんは他者にはわかりにくい形で自分の視覚的な経験を再現している」という理解の仕方になるわけですが、ところがそれは定型的な感覚を持つ私から見てそうだというだけのことで、大内さんから見ればそれが「列車の車窓からの景色の再現」として自然に見えるような振る舞いだったわけですよね。その意味では息子さんは「他者にもわかる形でふるまっていた」と言えることになります。

     そこで上の「仮説の仮説」自体が崩れ始めるわけですが、そうすると改めてなぜ大内さんがそれをすっとそう解釈できたのか、息子さんとの間に何が共有されていたからそれが可能になったのか、ということが、改めて大変に興味深い問題として見えてくることになります。

     いやあ、面白い問題です。この問題に答えられる理論って、どっかにあるんでしょうか?体験の仕方の構造が大内さんと息子さんで似ているから、自然にわかりやすくなる、ということなのかなとかも思いますが、むつかしいです。私にはなかなか思いつけませんが、でも極めて大事な問題がここにあると私は直感します。