2020.01.13
福祉の原点になる子どもの言葉
「梓からのメッセージ」というブログ記事をご覧になったことがあるでしょうか。
私は大阪で支援事業に従事されている金光建二さんに教えていただき、また全国の事業所対象の研修では金光さんがそれを紹介してくださったり、新聞などにも取り上げられていますから、ご存じの方も少なくないかもしれません。
内容についてはここで私が概要を紹介するのもおこがましく、リンク先で直接お読みいただいた方がよいと思います。それぞれの方の思いで読んでみてください。
これを書かれた是松いずみさんは、支援校の先生をされたあと、今は福岡子ども短期大学の先生をされていますが、ダウン症のお子さんがいらして、そのお子さんをめぐってそのきょうだい、そして教え子の子どもたちとの会話を軸に話が進みます。
多分お読みになった多くの方がそうかなと思うのですが、わたしが特に感動することのひとつはきょうだいが何の無理もなく、とても素直に梓ちゃんのことを「ただそこにいてくれること」がとても意味があると感じて、そう話しているところです。金光さんはそこにいてくれることの奇跡に感謝する気持ちを「在り難う」と表現されますが、このきようだいの気持ちに素直につながります。
他にもありますが、これからお読みになる方のためにこれ以上は書かないことにしましょう。
このきょうだいのことばは福祉を考えるとの出発点であり、また終着点なのかなと思います。それは人が生きることの究極的な意味に関わることでしょう。
もちろん現実の世の中にはこれと対極的な「意味」の見いだし方も常にあります。実際是松さんも紹介されているように、障がい児のきょうだいでも、その子を疎ましく思い、憤る子もあります。それは単に「子どもの純真無垢な美しい心」で説明するのは無理があります。
例えば下のお子さんに障がいがあると言われてショックを受け、必死でその子のために頑張るお母さんの姿に、上の子が嫉妬することもあります。何で自分のことを見てくれないのか。何でいつも自分だけ「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから」と我慢させられるのか。自分はいらない子なのか‥‥。
もちろんお母さんにそんなつもりはないわけですし、必死の思いの中で、上のお子さんとはある意味「私と一緒にこの子を見ていこう」という気持ちもなんとなく持たれたりすることもあるかもしれません。ただそれはなかなか上の子にはそのままは通じにくい。その怒りが下の子に向くことがあります。
自分のきょうだいが障がいを持つということで、学校でいじめられる話もしばしば耳にします。保育園で子どもたちの(一見ほほえましく感じる)やりとりを観察していても、本人たちは必死でお互いに闘っていたりします。子ども同士の関係も、競争したり、奪い合ったり、相手を支配しようとしたり、といった大人顔負けの厳しい社会のミニ版でもあります。いじめはそこに起こる。
ただ、そういう厳しいやり取りの中で、例えばおもちゃを奪い合う二人の子を見て、すっと自分のおもちゃを差し出すような子もいます。困っている子にごく自然に手を貸す子も珍しくありません。
人より上位に立とうとして(あるいは自分を守ろうとして)争う姿も、人に自然に手を貸して協力しあおうとする姿も、どちらか一方が嘘であるわけではなく、どちらも自然な人間の姿で、子どもだってそうですし、また一人のひとの中にもその両方が何らかの形で必ずある。
是松さんの紹介された例では、下の子の存在に怒った子が、梓ちゃんの話を聞いて思いが変わったとのことてした。ですから両方ある気持ちの片方を否定して「純真無垢になる」ことが課題なのではなく、どうしょうもなくその両方を抱え込みながら、それをどう自分なりに受け止めて、それをどんな風にバランスをとりながら形にして生きていくのか、が大事な課題なのだろうと思います。
世の中のしがらみの中で見失いそうになるその一方の気持ちを、梓ちゃんのきょうだいが語る言葉が、静かに深く思い起こさせてくれるのかなと思いました。
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