はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.01.17

受容と従属

発達障がい児の支援の時にまず大事なことは「居場所」が確保されることだと私は思っています。

繰り返し話しているように、発達障がいの特性によって、周囲から否定的に見られたり扱われたりし続けることで、深く傷つき続け、自己肯定感を持てなくなる可能性が高くなる、ということが発達障がい児の最も深刻な困難だと思うからです。

だから自分が無理のない自分のままでいられ、肯定される場がまずはとても大事になる。それは周囲の人がその子のことをそのままでまずは「受容する」姿勢によって可能になります。

実際、療育支援の事業所などで子どもが明るく元気になることが多いのは、スタッフの皆さんがそういう態度で子どもに接しているからだ、ということについては、私はほとんど確信を持っています。

その事の重要性は大前提とした上ですが、事例検討をしていると、「その次」の問題が深刻に現れて来る場合が時々あります。それは「受容される」ことを通り越して、子どもが相手を自分の思い通りに「支配」しようとし始めることがある、という問題です。なぜそんなことが起こるのでしょうか?
 
 
人がコミュニケーションに困難を抱える大きな原因の一つは、相手が考えていること、感じていること、意図していることを上手くつかめず、また自分の思いを相手に伝わりやすい形で表現する方法がわからないことです。

これは文化が異なるもの同士でも頻繁に起こって文化間摩擦を引き起こします。「男と女の間には、深くて暗い 川がある🎵」という歌詞にもあるように、男女間でもそういうことが起こりますし、親子などの世代間でもあります。要するにディスコミュニケーション現象なのですから、それはあらゆるところで起こりうるありふれたものです。

当然のように発達障がい者と定型発達者の間でもそれは頻繁に起こり、特に自閉系の方と定型的なコミュニケーション感覚を持つひととの間では極めて深刻になることが多いわけです。

では、相手のことがよくわからないときにどういう解決法があるかというと、いちばん簡単なのは「バイバイ」してしまうことです。でもそれは解決というより問題以前に戻ってしまうだけとも言えます。

バイバイ出来ないときはどうするかというと、我慢するとか気にしないようにするとかいうこともある程度はあり得ますが、これも限度があります。

我慢の限界が来たらどうするか、というと、一番単純な解決法が理解できない相手を「支配する」ことな訳ですね。もちろんこれは何らかの意味で自分が相手より「強い」場合ですし、相手はそんなことを望まないでしょうから、相手にとっては実に不合理な「解決」であることも当然です。

通常はその被害者となるのは「弱い」立場に置かれる発達障がい児の方です。そしてたとえ納得できなくても、訳がわからなくても周囲のやり方に「従わさせられる」ことが多くなるので、その事への怒りや恨みを少しずつ積み重ねていくこともあります。それは苦しいことですので、機会があれば何とかそこを脱したいと思うのも人として当然です。

そこで周囲の人が「受容」的にかかわろうとして努力するときに、ある点が上手くいかないと、新たなトラブルが起こる可能性が出てくるわけです。

それは相手の大人の「受容的な姿勢」が子どもに単なる「弱さ」と映ってしまったときです。その時、子どもは支配者になることで問題を解決しようとする場合が出てくる。

そうなると次々に理不尽な要求が出てきてしまい、大人がそれにただ振り回される状態になると、お互いに収拾が困難にもなります。お互いにというのは、そういう子どもの理不尽な要求に大人が疲弊してしまうと同時に、実は子ども自身も自分の理不尽な要求の暴走に振り回されて、自分をコントロールし、安定させられなくなるからです。

言ってみれば「暴君」になっているわけです。そして「暴君」はコントロールできない自分の衝動に常に不安を抱え続け、人を傷つけることで実は自分も傷つき(※)、人との繋がりが断たれ続けて、安らげないものです。その結果ますます暴君となつて人を支配して思い通りにしようとし、悪循環に陥る。
 
 
時として賢い子の場合、その「支配の道具」として「権利」という言葉を振り回すことがあります。これは後で述べるように本当の意味での「権利」の意味を知らない誤用なのですが、「権利」というと大人が怯んだりするので、子どもには大人支配の便利な武器になるのですね。

例えば先生が自分の要求に応えないのは、教師としての義務を果たさず、生徒の権利を否定している、と言って要求を通そうとするといった場合。

仮にそこで要求されている内容が、自分だけではなく、同じ条件を持つすべての人に認められるべき正当な要求であることが社会的に認められる場合は、それは正しい主張になります。特に立場の弱いものが不当な扱いを受けている場合は、理不尽な強者に対抗する根拠として「人としての権利」は重要な足場となります。

けれどもここで重要なことは、その権利は同じ条件を持つすべての人に平等に認められるものでなくてはならないということです。その公平さと公正さの条件を無視して、個人的な要求を主張するだけであれば、言い換えれば自分さえよければいいといったものであれば、それは単なるわがままで、正当な権利ではなく、認められないものです。

そういう理不尽な要求を認めてしまうと、それは相手を暴君に育ててしまうことになります。それは「受容」ではないし、療育支援でもありません。相手がそういう要求を持っていることを認めること(「あなたはこうしたいんだね」と受け止めること)と、それを正当なものとして認めて受け入れること(それにただ従うこと)は全くことなることです。

他者理解に困難がある子の場合は、ただ一方的な要求に従い続けると、「自分の要求」の他に「相手の要求」もあるのだということ、そこに自分の思い通りにはならない「他者」がいて、その他者と自分の間で調整が必要なのだ、という基本的なことへの気付きのチャンスも奪われてしまいます。

その結果ますます子どもは有効なコミュニケーションが身に付かなくなり、誰にとっても不幸な展開が起こってしまうわけです。
 
 
理屈としては以上のように割合にシンプルなことかなと思いますが、現実の場面では判断が難しくなり勝ちでしょう。それは「誰にでも平等に認められるべき」という基準が、単純に「平均的な人に認められるべき」と誤解される可能性があるからです。そうすると「平均的」ではない特性を持つゆえに「発達障がい」と呼ばれる子どもたちも、「平均的な対応」以上を要求する権利はない、と、逆向きの主張が生み出されてしまい、「合理的配慮」といった正当な権利義務関係が無視されてしまうかもしれません。

一体どこまでが合理的な配慮で、どこからが不当な要求なのかは、現実場面での具体的な問題については常に意見の対立が生まれるところで、その都度適切な地点を探して調整していくしかないものという性格があります。そういうグレーゾーンがあるので、子どもが理不尽な要求を「権利」として、そしてそれに相手が考えていること従うことが「義務」だと主張してくるときに、怯んでしまいやすくなるのでしょう。

そういう曖昧さを含んだ状況のなかで問題に向き合って解決の道を探るときに、大事な指針となることが「受容」と相手に支配されることは全く別であり、お互いに認め会える関係の調節の方法を一緒に模索することが大事で、決して子どもを暴君にしてはならない、ということなのだと私は思います。
  
 
 
※ 実はある程度知的にも成長してきた子どもの場合、この矛盾した気持ちに子ども自身が気づいて、自分が信頼するおとなに「自分はこれでいいのだろうか?」と尋ねてくる例もあります。その気持ちの微妙な揺れを見のがさずにしっかりと受け止めることが出来ると、その子が大人に支えられつつ自分の力で変わるきっかけも生まれるだろうと思います。

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