はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.02.03

自分物語の主人公

その人にとっての幸せ、ということを考えながら療育支援をする意義について、生きていく自分物語という視点から少し考えてみたいと思っています。

昔、岩波新書の「乳幼児の世界」などで知られ、障がい児問題についても色々活躍された発達心理学者の故野村庄吾先生から伺った話を、今改めて思い起こしています。人は誰も自分がいつも中心にいる「物語」を生きているんだという話です。

ある意味シンプルなその話が、実は発達障がいをめぐって共に生きる方たちの抱える困難を理解する上でも大きな意味があると思うようになりました。

もちろん自分が中心と言っても、その物語が自分の思い通りにどうとでもなる、という意味ではありません(※)。でも私たちの体験では、朝目が覚めたときから、夜寝るまで、ずっと「私が回りの世界を見る」「私がご飯を食べる」「私が他の人と関わる」といった形で、いつも「私」が主語になります。

「私があの人に誉められた」「私があいつに殴られた」という風に相手が行為の主体の時でも、「誉められた(殴られた)私」は受け身の形で物語の中心にいます。

「あの人がご飯を食べた」というように、その物語の中で「相手」が中心で語られることもあります。でもそれは相手を見ている間の一時的なことですし、もう少し言えば「私は『あの人がご飯を食べた』のを見た」というように、それもまた私の物語の中の1シーンということになります(※※、※※※)。

そうやって人は自分の見え方を柱にしながら人と一緒に生きていて、その人その人の人生の物語を紡いでいく訳です。当然、その人がどんな立場にいて、どんな体験を積み重ねていくかによって、その人の世界も他の誰とも違うものになりますし、そしてそのユニークな(その人だけの)世界の中心には自分がいつもいることになります。

ところがいつも物語の中心にいる自分が、その物語の主人公と感じられなくなる、ということがあります。その物語の中で、いつも自分の意に反して誰かから期待され、求められ、あるいは命じられるままに生きるしかないと感じられているような場合です(※※※※)。

まさにその自分の物語は自分の思い通りにならないどころか、自分を苦しめるだけの物語りになっているのです。そうなってしまうと、自分が自分の人生の物語を生きている感覚も失われ、自分の幸せを探すことも難しくなるでしょう。

ここで考えたいのはその自分の物語の世界で、自分が自分らしく生きられず、人に振り回され、あるいは支配されて生きている人間だと、とても辛い思いと共に感じられてしまう場合もあるという問題です。自分の世界、自分の物語が自分を支配し苦しめるものになり、その意味で自分がその物語の主人公になれない状況を考えたいのです。

そういう状況で人が幸せに生きられるというのはちょっと考えづらく思います。フロイトが「同一視」ということばで考えたように、自分を支配する相手と同一視(一心同体のように感じる)することで、そのしんどい葛藤状況を心理的にごまかすことができないわけではありませんし、そういう生き方も頭から否定することはできませんが、でもそうしか生きられない、それを嫌でも強制される状況がある、というのはやはり避けたいこと、乗り越えたいことに思えます。

その生きていく自分の物語の作り方が、人に依ってさまざであるわけですが、さらに定型発達者と発達障がい者の間でも、その物語の作られ方に大きな違いが生まれやすいのだと私は感じています。北村さんが「アンフェアを生きる」という連載の中で、定型中心の社会が「アンフェア」な社会だと感じられ、その視点からいろいろ問題を投げかけられていますが、定型発達者の中で、その彼女の「物語」をごく自然に共有する方はどの程度あるでしょうか。

多分北村さんが「マイノリティと嘘」などで論じられているように、主流派の社会の中で苦労する少数派の立場に立たされた人は、似たような経験を積み重ねることで同じような物語を共有しやすいかもしれません。また主流派の立場で生きていても、一生涯一時的にも少数派になることが一度もない、という人はまずいないでしょうから、その経験から想像すれば、「わからないでもない」という程度には共有できる部分ができるかもしれません。

けれども、部分的には共有できたとしても、「なんでそこまで?」「もう少し違う見方もできるのでは?」「偏りすぎ」などと感じる人も少なくないのではないかという気がします。それはやはり北村さんとは生きてきた状況が異なり、物語の中心軸が彼女とはずれているから生まれる感じ方なのかなという気がします。どちらがいいとかわるいとかいう話ではなく、そういう物語のズレが生まれやすい状況がそこにあるのだということを、まずは確認したいのです。

違う物語を生きている人の間では、何を幸せと感じるかも異なってきます。先日テレビで定年で退職した男性が、その後何をしていいかわからなくなってゲームセンターに通い続けたりしている、というレポートを見ましたが、勤め人としての物語の中でずっと自分を演じてきた。そしてその中では自分は何かの役割を持ち、人にもその役割に期待され、それなりに幸せも感じて生きてきた。ところが退職でその物語の舞台が失われてしまった。そうしたら自分はそこからどういう役を演じていいかわからなくなって混乱している。そんな姿が見えてきます。

じゃあ奥さんが趣味などで出かけるとき、「自分も連れて行って」と頼めばいいじゃないか、という意見が出ていましたが、即座にほかの人たちから否定されていました。奥さんはもう違う物語でずっと生きてきて、そこに夫の場所、役割はなくなってしまっているのです。そこに割り込んでこられてもただうっとうしいだけになってしまう。奥さんの幸せは別の物語の中の幸せだというわけですね。

定型発達者と発達障がい者も、それぞれの特性をベースに自分の物語を作るのだとすれば、そこでの幸せが簡単に一致するとは限りません。お互いに自分の幸せの尺度で相手と付き合うと、あいてにとってそれが幸せでない状況も起こりえます。たとえば自閉的な子どもの「こだわり行動」と言われるもの。「僕は僕なんだから」のA君にとって、ベルトコンベアーの停止音が職場の幸せの大事な要素であったように、それぞれの人が感じる幸せのポイントはびっくりするくらいにずれていることがよくある。

療育支援の場面でも、その子にとっての幸せと、支援する大人にとっての幸せ感がずれている可能性には敏感である必要があると私は思います。その異なる幸せの在り方を無視されて、人の幸せを押し付けられた状態になってしまうと、その人がその人自身を主人公とする自分物語の中で、幸せに生きられないことになり、その人がつらい苦しい物語を生きることになってしまうと思えるからです。

※ 物語の考え方を心理学に改めて本格的に導入しようとした有力な心理学者にアメリカのブルーナーがいます。数字で「客観的に」分析しようとする「量的心理学」に対して、人が生きる「意味の世界」に踏み込む「質的心理学」の背景になる理論のひとつで、臨床心理学のナラティブセラピー等も影響を受けているもののひとつです。日本では浜田寿美男客員研究員が、また違った視点から物語の問題にこだわった研究を展開してきています。物語と言えばミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の中で、主人公の少年バスチアンはフアンタージェンという物語世界のなかに迷い込み、「虚無」に侵されて崩れ行くフアンタージェンを救うために、さまざまな困難を乗り越え、最後はたったひとつのかけらになってしまったフアンタージェンを、彼の想像力でまた蘇らせます。ところが物語はそれでハッピーエンドなのではなく、そのあと、彼は再生した物語世界の中で暴君になってしまい、他の登場人物との関係も崩れていきます。その状態を乗り越えて行くのが後半の物語になります。映画のネヴァーエンディングストーリー(一作目)は、この後半の大事なメッセージを壊してしまうようなエンディングにしたため、エンデは激しく憤って、自分の本が映画化されたものとは認めませんでした。物語の主人公になることと、独裁者、暴君になることは全く別のことなのですね。

※※ 誰も自分の視点からしか見られないよね、ということから出発する議論はたくさんあります。哲学で有名なのはデカルトの「我思う、ゆえに我あり」ですね。この場合、自分の視点どころか、存在までも「我」に根拠を求められています。この話を突き詰めると、世の中には自分しか確実にいるとは言えない、という独我論に落ち込んで出られなくなります。言語哲学(かな?分類が難しい)のバフチンの「視覚の余剰」という話もしばしば引用され、人が常に自分の視点に縛られていることを前提にしますが、この場合は相手との対話的な関係が前提になっての「私」です。このブログは、人は自分の視点から逃れて神のような絶対的な視点(客観)を持つことは不可能だが、その自分の視点は他者との関係の中でしか成立しない、という立場から書かれています。

※※※ 最近見たニュースでまた非常に恐ろしくもあり、興味深いものがありました。それは人の夢を映像のようにして見せてくれるテクニックが開発されてきているという話です。面白いというか、とても危険なことでもあるので、その意味でも注意しておかなければならないと思うのですが、理屈はたぶんこういうことです。
 まず人が何かを見ているときに、脳がどういう状態なのかを調べます。そういうデータをたくさん積み重ね、深層学習をするAIでデータを処理することで、脳の状態から見ているものを逆に推定する、というプログラムを作るんですね。そしてある程度それが可能になった。これも「人の見ているもの」を外から人が盗み見られるわけですから、気持ち悪いと言えば気持ち悪いし、倫理的な問題もありますが、とにかく可能になってきた。それで今度はそのプログラムを、寝て夢を見ている人(レム睡眠の時)の脳の状態に応用すると、夢で見ている像がそこにまだぼんやりですが、現れるというわけです。これは倫理的には人の心理を支配する道具にもなりうるので、はるかにやばすぎですが、とにかくそういうことです。
 それで、その時に面白いことは、そこに現れている像が、言ってみれば人が物を見るときのように、ある一方向から一面的に見えた像になっているということでした。つまり、私たちが物を見るときは目で見ますから、目の位置から見えるところしか見えません。そのものの裏側は目の位置を変えない限りは見えないわけですね。夢というのはある意味で自分が主観的に勝手に作れる世界ですから、ピカソのキュービズムの絵みたいに、物の見え方も多面的なものに変わっても良さそうですが、やはりある一方向からの見え方だというわけです。夢の中でも人は自分の視点に縛られるのか、と思って興味深いことでした。それにしてもやばい研究。
 
※※※※ 自分が生きているなかで生み出されているものが、逆に自分を支配するものとして外側にたち現れる。「疎外」という言葉で表されるような状態とも考えられます。

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