2020.01.29
失敗って大事
失敗は、「よくないこと」とか「無駄なこと」と感じられるのが普通かもしれません。
確かにたった一度しかチャンスがないようなことなら、「その時に」成功することが目標なので、失敗は文字通り失敗。一発勝負のときはよくないことでしょう。
でも人生、そういう場面は意外と少ないものです。またいずれ別の機会も訪れます。
では例えば学習の場面とか、療育支援の場面はどうでしょうか?つまり、ある新しい課題をクリアするために頑張る場面です。もちろん一発勝負ではないので、失敗はありなのですが、やはり「成功すること」が「いいこと」と考えられ、失敗はできれば避けて通りたい「無駄なこと」と思われたりしないでしょうか。
たしかにいわゆる「出来のよい子」は「一を知れば十を知る」。ほとんど失敗なしに正解にたどり着いてしまうように見えるかもしれません。でも実は違うんです。というのが今日のテーマです。
ちょっと寄り道して、こんなエピソードからはじめてみます。文化人類学の原ひろ子さんという方が、「子どもの文化人類学」という、もう今では古典的なともいえる本で紹介している話です。
彼女は北米に住む極北の狩猟民極北の狩猟民ヘアー・インディアンの人たちの中に入り込んで、彼らの子育てなどを研究し、その体験をこの本にまとめました。彼らの生活は狩猟を軸にしていますから、獲物を解体するときなど、ナイフが上手に使えることはとても重要なことになります。
子どもたちはごく小さい幼児のころからナイフを手にするようになります。日本の子どもなら「そんな危ないこと!」とまず取り上げられてしまうでしょう。でもナイフで遊ぶ。遊びというのは「大人の生活をまねして将来の準備をすること」という大事な役割もありますので(たとえばママゴトもそうですね)、小さいうちから彼らの子どもがナイフで遊ぶのは理にかなったことと言えます。
でももちろんそれは危ないことでもあり、下手をすると大けがをしてしまうかもしれません。「正しい使い方」を身に着けるのはとても重要なことです。
じゃあどうするか。ヘアー・インディアンの大人は、わざとナイフで子どもにケガさせるんだそうです。もちろん軽いケガです。
ここで彼らが子どもに教えているのは「ただしさ」というより、「成功と失敗の境目」を体で覚えさせることだ、と言えるように思います。何が失敗なのかを体験させることで、「成功とは何か」を子ども自身が感覚的に理解し、「失敗しないやりかた」を子どもが自分自身で工夫する足場を与えているのです。
いろいろやってみて、だんだんと成功するやり方を発見していくことを「試行錯誤」といい、心理学の学習に関する議論でも、新たな行動や知識を獲得するうえで重要なものとして考えられています。そうするとヘアー・インディアンの人たちは、子どもに「試行錯誤」の機会を提供しているのだという風にも言えるでしょう。
そこで大人としての配慮があるとすれば、その試行錯誤の中での「失敗」が「決定的な失敗」にならないようにすることです。軽い失敗を経験することで、「目標」を子ども自身に実感させ、それに向けての試行錯誤がしやすいようにしてあげる。
私が取り組んでいる共同研究の一つに異文化間の相互理解をどう作れるのか(※)というテーマがあるのですが、そこで東京外大の田島充士さんが、小さな文化間対立状況を含んだ文化間対話を児童生徒が経験することから、彼らの将来の異文化への対応力を高める力を養うことについて、病原菌(ここでは文化間の摩擦)に対する抵抗力をつけるワクチンの接種になぞらえた議論を展開していますがそれも似たようなことですね。試行錯誤の中で小さな失敗を繰り返すことを通して、より大きな現実の問題に直面したときに、柔軟に問題に対処する力、そこから自ら正解を生み出す力を養えるわけです。
外から与えられ、ただ丸暗記するだけの「正解」は力を持ちません。なんでそれが正解なのか、自分ではわからない。ただそれを押し付ける人がいるからいやいやでもそれに従っているだけのことです。ですからそこには自分から生み出される工夫は出てこない。応用が利かない機械的な行動になってしまいます。
ところが自分で試行錯誤しながら正解にたどり着けられれば、それはそもそも直面した困難な状況を、自分で理解して、何が正解になるのかも自分で「発見」し、失敗を乗り越える工夫を自ら「発明」したことでもありますから、これは強い訳です。
個人の成長の話から、ちょっと視点を移してもうすこし大きな社会の流れの中で、失敗の意味を考えてみます。
ある人からこんな質問をされたことがあります。「日本はどこの国をモデルにしたらいいんでしょう?」その悩み方、とてもよくわかります。なぜなら日本という社会の特徴は、常に外側に「最先端のモデル」を置いて、それをまねし、また改良して自分の社会を作ってくる、という生き方を少なくとも3世紀以降1800年くらいは続けてきているからです。最初は朝鮮半島であったり、その先の中国でしたし、幕末から先はそれがフランスやドイツに変わり、戦後はアメリカになった。また一部はソ連でした。
ところがすでにソ連は崩壊し、今はアメリカが世界のトップとしての立場を放棄し始めて、世界が大動乱期に入って、もはや「最先端」もはっきりしなくなってきた。誰も問題解決の明確な回答を持っていないように感じられる時代です。「正解(モデル)」が自分の外側にあって、それを追いかけていればいい時代はもうなくなってしまったことになります。
そういう状況の中でこれから生きる子どもたちに必要とされる力は、やはり「失敗を通して正解を見出していける力」なんだよな、と思うわけです。
発達障がい児は定型的なやり方が苦手で、別の感性、別の見方、別の得意をもって生きています。定形にとっての「正解」は必ずしも彼らにとっての「正解」とは限りません。そういう発達障がい児・者の「失敗」の中に、実は定型の持つ「正解」の可能性を超える新たな「正解」が生み出されてくる可能性は大いにあります。
そういう大きな問題も含めて、「失敗しながら模索する」ことの大切さを思います。
※ 定型発達者と発達障がい者も異文化を持つひとびとと見ることも可能です。というのは、それぞれ持って生まれた特性、感覚や知覚、注意の仕方の特徴などがかなりお互いにずれるために、物の見方や価値観までもが変わってくることがよくあり、そこでの対立が起こりやすいからです。それはまさに異文化間の摩擦と言ってよいような性質を持っています。だとすれば、発達障がい者が定型社会の中で抱える困難は、文化的少数者が周囲の文化環境に適応できなくて苦しむ「文化的不適応」の状態の一種と見ることも可能になります。
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
- 大事なのは「そうなる過程」
- 今年もよろしくお願いします
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