はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.02.15

当事者研究のはなし 1

引地達也客員研究員(シャローム大学学長、福祉教育支援協会)さん達が運営した、文科省主催の「共に学び、生きる共生社会コンファレンス」に参加してきました。

目的は分科会の一つで当事者研究の綾屋紗月さんがコーディネーターをされるので、是非一度お話をしたかったからでした。

当事者研究というのは、もともとは精神障がいの当事者達が集まって生活し、様々な地域活動拠点としている「べてるの家」で始まったユニークな取り組みで、妄想の症状を「抑える」のではなく、それについて当事者同士で語り合って自己理解を深め(だから当事者研究)、ある意味妄想とも共に生きられる形を模索するものです。

綾屋さんや熊谷晋一郎さん達が、その発想を取り入れ、自閉症スペクトラムの当事者が自分たち自身で自分を理解し、生きていくための方法の一つとして展開してきました。今では東大の先端研究所の中にそのための研究室も設置されてお二人はそこに籍をおいて活躍されています。

お二人については研修などでもしばしば紹介させていただくのですが、綾屋さんはアスペルガーの診断を受けている当事者で、熊谷さんは小児科医でもありますが、脳性麻痺で車椅子を使われている身体障がいの当事者でもあります。

コンファレンスの終了後にお二人と少し話すことができました。以下は分科会の中で綾屋さんがご自分について語られていたことについて、私がどう感じ、どう理解したかのご紹介です。ですから綾屋さんご自身が語ろうと意図されたこととどこまで重なっているかは私には判断できません。

綾屋さんの分科会では、当事者研究の概要の説明と、ご自身の当事者研究の紹介、そして実際にそのミーティングに参加されている方たちのうち、依存症も抱えてきた三人の方の話しで構成されていました。

綾屋さんの話で私がとても興味を引かれたのは、他の人たちとは異なるもののみかた、感じ方、身体感覚を言葉や映像で表現し、私たちにつたえてくれているところでした。

このはつけんラボでも大内さんたち当事者の方の記事で、私はその世界の面白さに仰天することしきりですが(笑)、綾屋さんの世界もビックリです。

例えば友達と歩いていて道端に落ちている落ち葉を見て綾屋さんが「気持ち悪い」と言う。友達はキョトンとなる。その写真を見せていただきましたが、私には単に道に落ちている落ち葉にしか見えません。ところがそれを綾屋さんがどう見ていたか、と言う写真も同時に見せてくれました。

それは落ち葉を目の前で拡大して見たような映像です。もう半ばまで葉脈だけになっているような、見るからに気色悪い(笑)「物体」がそこに写っていました。

落ち葉を見た瞬間、綾屋さんはその落ち葉の小さな部分に視野が吸い込まれるように集中してしまったのです。その視力にもビックにですけど。

その拡大写真を見て、友達も納得してくれたとのことでしたが、綾屋さんのとっさの言葉からそういう見え方を想像できる定型の人などまずほとんどいないでしょうね。

また、身体感覚にも独特のもの(定型から見たときに)があって、体のいろんな場所から来る感覚がそれぞれバラバラにやって来て、それらをまとめて意味を理解するのが難しかったりもするそうです。その結果、自分が空腹になっていることにもなかなか気づかず(※)、何食か食べ忘れることもあるらしい。

そのほか文字のみえかたとかいくつかの例を説明してくれましたが、言われなければ私などには全く想像もできませんし、言われて「へえ、そんなこともあるんだ!」とは思っても、「なるほどなるほど」と理解したり、「そうだよなあ」と共感的に受け止めることは至難の技です。

お話を聞いていて、私はそれを綾屋さんの持つ「感覚の障がい」というのとはちょっと違うと思いました。むしろそれは綾屋さんのめちゃくちゃオリジナルな感覚世界という気がしましたし、綾屋さんはめちゃくちゃオリジナリティーの高い方なんだなあ、と素朴に思いました。

けれどもそのオリジナリティーには通常おたがいになかなか気づけません。誰もが自分の見え方、感じ方が当たり前で他の人も同じと思い込んでいるからです。

ただ、発達障がいの方は少数派なので、自分と周囲のよくわからないずれ方に悩ませられやすいのですね。そうして周囲の人となんかうまく通じ会えない。定型発達者はそれを「共感性のなさ」と決めつけてきました。

そういう状況のなかで、綾屋さんのような方は自分の身体感覚や自己像を安定して作れなくなります。素直な感覚がまわりから否定され続けるからです。

そういう困難のなかで進められた当事者研究のなかで、綾屋さんはご自分のオリジナルな感じ方を理解することができてきて、それを言葉で定型にも表現できるようになっていかれたと言うことになります。

このとき、とても面白いことが起こったようでした。それまで煙のようにモヤモヤしていた身体イメージに、はっきりとした形を感じるようになられたのです(「自分の輪郭や実体が確かに存在する感じ」とレジュメには書かれています)。

つまり、当事者研究という試みのなかで、綾屋さんは自分の言葉で自分の身体を取り戻すことができた、そういうことなのだろうと思いました。

ことばで自分を取り戻すと言うのは少し分かりにくいでしょうか?自分の物の見方に関して紹介されたもう一つの例で説明してみます。

ある緑の原っぱ(?)に一面に紫色の小さな花が咲いています。それを見て定型の人たちが「一面の紫の花」というような表現で共感してそれを語り合っていたらしいのです。ところがそこで綾屋さんが混乱してしまった。

なぜなら紫の花と言っても、たくさんの異なる種類の花が咲き乱れていて、その紫はどれも違う色合いの紫だったのです。彼女の目にはその色や形の違いがまざまざと感じられたのですね。それなのにそれをみんな「紫の花」の一言でまとめてしまっていいのだろうかと戸惑われたようです。例えてみれば、青いビーズと赤いビーズがたくさん散らばっているのを見て「わあ、一面の色のついたビーズだね!」と同意を求められているような感じでしょうか?

ところがその後、図鑑で実際そこには様々な種類の花が咲いていて、それぞれに別々の名前がちゃんとついていることを知ることができた。それを見て、綾屋さんは、自分が間違っていたのではなかったと安心されたようでした。

これはどういうことかと考えてみると、最初に定型の人たちが、綾屋さんにとってはそれぞれ違う花を全部一色単にしておたがいに納得していた。でも綾屋さんにとってはそれらはどうしても違うものに見えた。その綾屋さんの感じ方、見方がその人たちに共有されていなかったのです。そうすると、違いを見た自分の感覚がおかしいのか、という迷いが生まれても不思議はありません。

それが図鑑で名前がついて区別されていた。つまり、彼女の感覚は正しかったことが、名前の差によって確認され、人々と共有可能になったわけです。名前(言葉)によって自分の見方が人々と共有され、不安が解消された。ここでも言葉が自分の状態を変えたわけです。自分の素直な感覚を肯定できるようになり、それを取り戻したことになります。

あるいは他の理解の仕方もあるかもしれませんが、いずれにせよこの問題、いろんな意味でかなり重要なものだと感じます。
 

もうひとつの話題であった三人の方の話についてはまた回を改めて書いてみたいと思います。プライバシーのことがあるので、具体的な中身はご紹介できませんが、それでもそこで定型中心の「共感性」についての理解を見直す必要性が結構リアルに感じられるのではないかと思います。
 
 
※ 「空腹」という一見単純に見える一言も、実際には体のいろんな感覚をまとめてできあがっている結構複雑な感覚だということがわかりますね。つまり、綾屋さんの体が作りだす感覚のまとまり方と、私などの体が作り出す感覚のまとまり方には違いがあって、そのズレがお互いに相手の感じ方を理解することのむつかしさ、共感することのむつかしさを生んでいるらしいことがこんなエピソードからも見えてきます。

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