はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.05.25

言葉と言葉を支えるもの

 発達障がいのお子さん、特に知的な遅れを伴うお子さんの困難に気づくきっかけとして多いものの一つは「言葉がなかなか出てこない」というものです。
 
 なぜかと言えば、この世の中を渡っていく時、言葉がないとどうしようもない、と普通思われているからですし、もっと素朴に言えば、私たちが日々生きていく中で、言葉でお互いの気持ちを伝えあったり、調整したりすることが多いので、それができないととても困るからです。

 そういう「人と一緒に生きていく」ための手段として、言葉がものすごい大きな働きをしているので、言葉が遅れる、出ない、ということはものすごく心配の種になる。まあ当たり前のことですが、それを言葉にして説明すると(笑)、そういう話になるでしょう。

 さらに私たち研究者の場合は、なんでも言葉(普通の言葉もありますし、数学といった特殊な言葉もありますが)に置き換えて理解しようとする変な人間で、言ってみれば宇宙全体を言葉に置き換えてしまおうという変なことを追求し続けています。

 科学では「法則」というものを明らかにすることが重要な課題の一つです。発達障がいの療育でよく使われているABA(応用的行動分析)は、そのベースとなる理論として新行動主義という心理学の一つの理論を使っています。スキナーという人が提唱した議論ですが、簡単に言えば動物は自分の行動の結果が自分に都合が良ければその行動を繰り返し、都合が悪ければその行動を減らしていく、という「法則性」をすべての基本に置く考え方です。

 ですから、ペットなどに何かを教えるときによく使われ、とても効果のある方法ですが、動物の一種としての人間もその法則に従っているはずなので、その法則を利用すれば人の行動をコントロールできるのだ、という発想になります。

 コントロールする人から見て「よい」行動が子どもに見られたときは、その子にとって都合の良いご褒美(好子・正の強化子・賞)を与え、「悪い」行動が見られたときはその子にとって都合の悪い結果(嫌子・負の強化子・罰)を与え、そうやって「よい」行動を増やし、「悪い」行動を減らすというのが基本的な形です(※)。子育てをするとき、子どもをほめてあげたり叱ったり、というのはだれでも普通によくやる方法ですが、これもこの原理を使っているということになります。

 こういう法則もまた言葉や数式を使って表されます。

 また社会が成り立つにはルール(規則・法律)が必要ですが、これももちろん言葉で表現されて共有されます。

 物の世界を解明する物理学は数学という言葉で世界を表現していきます。神は宇宙を数学の言葉で書いたということを言っている科学者もいたと思います。

 物の世界から人間のふるまい、社会の成り立ちまで、全部言葉で表現してしまおうというのが研究者の野望になっている、とも言えます。言語学などは言葉を言葉で理解するというわかったようなわかんないようなことをやります。哲学も世界を言葉で表すための理屈を探している、というふうに見ることもできます。たとえば「目の前のパソコンが<本当にある>とはなぜ言えるのか」というわけがわからないような疑問に一生懸命言葉で答えようとしたりするのが哲学ですし。

 一般の世界に生きている人にとっては研究者の世界はちょっと異常じゃないかと感じられるくらいだと思います。実際研究者は(私を含めて(笑))変な人が多いですね。変な人を見たかったら研究機関に行けばいくらでも見られます(笑)。

 とはいえ、いくらそんな試みを続けていっても、世界の全部が言葉で表されることもあり得ません。

 たとえばなにかを見たり体験したりして、気持ちが昂(たかぶ)って、「ことばにならない」という経験を誰もすると思います。「ことばにならない」くらいですから、ことばにできません(笑)。

 禅宗では言葉で世界を理解する方法をやめようとするのが重要な悟りへの一歩となるようです。ですから、その世界への言葉による入り口にもなる「般若心経」などは「…無色無受想行識無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得…」ととにかく「無」のオンパレードになります。あるものは言葉で名付けられる。でも「無」なわけですから言葉で表せず「無」としか言いようがない。さらに進めば「無もない」という世界に入っていきます。悟りへの道の一つである座禅も、徹底して言葉を排した修行です。

 リンゴを食べるとお腹が膨れます。でも「リンゴを食べる」と言葉で言ってもお腹は膨れません。言葉は体験を「表す」ことはできます。でもその言葉自体は表された体験ではない。体験は言葉を生み出します。でも言葉は体験そのものではない(※※)。

 今もBGMにこんなピアノ曲のメドレーを聞いていますが、それを聞いて穏やかな気持ちになる。その気持ち自体は言葉ではありません。言葉で指し示すことができるだけです。

 
 何をわかったようなわからないような世迷言を続けているのか、と思われるかもしれません。でも、意外にこのこと、療育支援を考えるうえでも大事なことだと思うんです。「言葉が育たない」ということで焦られるとき、その言葉を育てるために一番大事な基礎は何かというと、体験の世界なんですね。豊かな体験があって、そこにそれを理解し、伝える道具として言葉が使われるとき、言葉は力を持ちます。

 でも表すべき体験がなければ、言葉は生まれようもなく、表すべき豊かな体験が無ければ、形だけ得られた言葉もまた貧弱で力のない言葉になる。言葉を支える世界、言葉を生み出す世界を豊かに子どもと共有していくことが、結局ことばを育てることになる。しかも人が生きていく時、その生きている世界を豊かにするのは言葉自体ではなく、体験です。言葉を介して体験が広がることはありますし、それは大事なことですが、その場合も言葉は単に手段にすぎず、目的ではない。

 手段に振り回されて目的が見えなくなっている状態は不幸です。それは人の人生を貧しくしていきます。生きる意味を見失わせていきます。言葉を支える世界をどう豊かにしていくのか。私を含めて言葉の世界に縛られてしまっている研究者は、ともすればそこを見失った議論をしがちですが、その視点を見失うことなく療育支援の在り方を考えていくことがとても大事だと、最近特に自戒を込めて思います。
 
 

※ あまり語られることがないことですが、この「コントロールする人から見て」というところが重要です。つまり、何を増やす行動に選び、何を減らす行動に選ぶか、ということは「コントロールする人」が決めることであり、子ども自身ではない、というのがこの手法の基本的な考え方にあります(必ずしも自覚はされていないこともあります)。実際にはコントロールする人(療育者や先生、親など)が「よい(悪い)」と考えたことが、本当にその子にとって「よい(悪い)」ことなのかは簡単には決められません。コントロールする側が「子どもの為によいこと」と考えたことが、結果として子どもを苦しめてしまうこともよくある、ということは療育支援に携わったことのある方ならよく経験することでしょう。つまり「何をコントロールの目標にすべきか」ということについて、ABAの理論はその基本的な性質から言って何も教えてくれないわけですから、そこは別に丁寧に考えていく必要があるということになります。

※※ 言葉を話すという体験という意味では体験ですが、「言葉を話した」という言葉自体は体験ではありません。ただし「リンゴを食べればお腹が膨れる」という言葉に従って実際に行動すれば、それは「お腹が膨れる」という体験が得られます。言葉の世界と体験の世界は体を動かすことでつながっているとも言えます。もともとはそれらは一体のものなのですが。

RSS

コメント欄(コメントは団体会員と個人会員Aの方が可能)

投稿はありません