2020.05.27
新型コロナと発達障がい問題(1)再生産数という考え方の話
変なタイトルですが、別に発達障がいが新型コロナに直接関係しているという話ではありません。これからの新型コロナウイルスへの対策は「新しい生活スタイル」を必要としているので、その点で発達障がいを考える視点もどこかでかかわってくるだろうといった話です。
まず新しい生活スタイルが必要と言われている理由を簡単に考えてみます。「8割おじさん・西浦教授が語る「コロナ新事実」」と「科学が示す「コロナ長期化」という確実な将来」という最近の興味深い記事がネタ元です。
ウィルスが拡がるというのは、当たり前ですけど人から人へとウイルスが感染していくからですが、その感染する力が大きいと流行は爆発的に起こりますし、弱いと緩やかに進みます。症状が軽いウィルスなら爆発的に広がっても大したことはありませんが、致死率が高いようなものだとそれは大変に危険です。一挙に患者さんが増えると医療も対応できなくなってますます致死率が高まる。だからできるだけ感染しないようにしなければならない。
この「どの程度感染しやすいか」を表すのが「再生産数」という数字で、新型コロナにかかってしまったひとが、もう人に感染させない状態(治癒するか亡くなるか)になるまでに平均して何人の人に感染させるか、という数値です。もし再生産数1なら1人の人が治る(またはなくなる)までに1人しか感染させないので、感染者数は拡大も減少もせず、だらだらと同じ状態が続きますし、1を下回るほど、だんだん感染者数が減っていく。
このあたりまではもうテレビなどでもおなじみでしょう。
もう少しそこを詳しく言うと、この再生産数はウィルスの性質だけでは決まりません。というのは、問題は「人に感染させる」かどうかですから、仮に感染力の強いウイルスでも感染者を完全に隔離してしまえば、新たな感染者が出ません。だからもし何も対策をしない状態で再生産数が2.5のウイルス(今のところコロナウイルスはそういう想定になっているみたいです)であっても、そういうことが完全にできるのであれば再生産数は0です。
つまり、ウィルスが本来持っている感染力(基本再生産数)を、たとえばマスクをするとか、手洗いをするとか、三密を避けるなどによってできるだけ小さな値に持っていくことによって実際の感染力(実効再生産数)は低下していくわけです。実際の感染力が落ちれば落ちるほど、爆発的な感染は抑えられ、医療崩壊が避けられ、流行は終息に向かっていきます。
これがこれまで多くの国で行われてきた対策の基本になっているわけですね。
もうひとつ、「人に感染させる力を減らす」だけでなく、そもそも「感染しにくくなる」ことでも実効再生産数は減少していきます。つまり免疫ができたらいいわけですね。免疫ができる基本は感染して自然に抗体ができることです。でもそのまま感染すると危ないので、人工的に危険を減らして「弱く感染」した状態にしてしまって抗体を作るのがワクチンです。抗体を持つ人の割合が増えれば増えるほど、感染は起こりにくくなるので、実効再生産数が減少し、やがて終息していきます。この状態が「集団免疫」ができたと言われる状態です。
ということで、人々の行動を変えて感染する機会を減らし、感染のスピードを緩やかにして医療崩壊を防ぎ、やがてワクチンができて安全に集団免疫の状態に到達するのを狙う、というのが現在世界の大部分で行われている対策で、スウェーデンや初期の英国などは人為的にそういうことをせずに自然状態で集団免疫に早く到達しようという政策をとりました。
さて、「8割おじさん・西浦教授が語る「コロナ新事実」」で大変興味深かったのは、この再生産数の理解の仕方に、今大きな変化が起こりつつあるという話でした。
より細かいことは実際の記事でご覧いただければと思いますが、基本的なポイントは何かというと、これまでの再生産数の考え方は「すべての人が同じ感染力を持って人に感染させる可能性がある」という前提で、それを単純に積み上げて感染者数の増加や減少を計算していくやり方だったようですが、それだと実態に合わず、ある程度高めの数値が出る傾向が問題になってきたというのです。
ですから、基本再生産数が2.5と想定した場合は、感染が終息に向かうには集団免疫が60%必要で、完全になくなるには70%必要といった数値が出されてきたようなのですが、それよりもう少し少ない%でそうなる可能性があります。
ではどうしてそういうことが起こるかというと、「みんなが同じ感染力を持って人に感染させる」という前提が実態に合わないからで、いろんな事情でそれぞれの人々の実効再生産数が違う(これを異質性と呼んでるみたいです)ために、単純に基本再生産数で決まらないというわけです。
たとえば爆発的な感染で大変だったイタリアは人々の身体接触が大きいですよね。これに対して日本ではもともと身体接触が少ない。それだけでもウイルス自体は同じでも、実効再生産数が異なります。また、三密状態が起こりやすい生活スタイルを持っている地域と、人口が少なくてそれが起こりにくいところでは、やはり実効再生産数に違いが出てきます。年齢が違うと行動パターンも違いますから、そこでも実効再生産数が変わってくる。
原因としてのウイルスは同じでも、それが実際にどういう力を持つかは、人々のふるまい方で変わっていくわけですし、しかもそれが地域や年齢などの特徴によっていろんなパターンが生まれ、そういう「異質性」を合わせて考えると、単純な計算ではうまく実態に合わないということです。それで、その異質性の要素を入れ込んで計算する工夫を今すすめているらしいのですが、大体は単純な計算よりは低くなっていくようです。
さて、ウィルスの基本的な仕組みとか、抗体ができる仕組みとかは生物学的あるいは医学的な問題で、自然科学的に理解できる範囲の事です。基本再生産数という概念は、そういう仮定に基づいて推定された、言ってみれば理念的な数値です。けれども現実の感染はそのようには進まない。そしてそこを左右するのは人々の行動の特徴なわけです。
ではこの行動を左右するのはなんでしょうか?たとえば身体接触とか、手洗いの積極性とか、個人によっても違います。その人の性格、感覚によって変わります。それだけでなく、その社会の集団の中でどういうやり方がいいと考えられているか、つまりその人々の持つ文化がそこに効いてきているわけです。文化がその人の行動を方向付けるわけです(※)。これは明らかに自然科学を超えた人文社会科学の領域の問題ということになります。
ということで、回を改めてその視点から続きを考えてみます。
※ 手前味噌で恐縮ですが、「ではそこでいう文化ってなんなのか?」という原理的な問題については、拙著「文化とは何か、どこにあるのか」でこれまでの文化の考え方をかなり根っこから再検討した形で整理をしてみました。これまでの文化に関する理論が躓いてきた、個人のものとも言えないし、集団のものとも言えない、文化の曖昧さという性質を、より実態に近くとらえる視点を論じたものです。
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
- 大事なのは「そうなる過程」
- 今年もよろしくお願いします
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