はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.06.01

カメは自分の甲羅を見られない

 youtubeでウミガメが泳ぐところを上から写した動画を見ていて、「このカメは一生自分の甲羅を見られないんだなあ」ということをいまさらのようにしみじみ思いました。

 人も同じですね。後ろに目がついていないので、自分の背中を直接見ることは一生できません。

 でも「自分の背中を一度も見たことがない」ということもないでしょう。たとえば鏡に映してみたり、写真に撮った背中なら見られるからです。つまり「直接」は無理でも「間接的」なら見られます。

 ではカメもそんなふうにしたら「自分の甲羅を見る」ことができるでしょうか?できません。なぜならそこに映っているものが「自分の」甲羅だとは理解できないからです。「あそこに見えているもの」=「私の姿」という理解はそう簡単には出来ません。だからもしかすると「ほかのカメの甲羅」としては見るかもしれませんが、自分の甲羅を見る、というカメの体験は生まれようもないわけです。

 人間でも同じようなことが起こります。生まれてから鏡を見た経験のない狩猟採集民の方たちに、その人たちの写真を見せたら、周辺の人については「これはだれ、これはだれ」とその人の名前を言うことができるのに、自分の写真を見てもなんだかよくわからなくなる、という話をどこかで読んだことがあります。自分の名前はもちろん知っているわけですが、それがその写真の姿と結びつかないのですね。

 写真の自分を見るというのは、言ってみれば自分を自分の外側にいるほかの人の視点から見つめることです。そして「見ているこの私」と、写真に写っている「見られているこの人」がつながって同じ「私」なんだと理解するのはそう簡単なことではないわけです。それは経験と発達を通して、徐々に獲得されていく「理解」です。カメにはそういう仕組みが育つ条件がないから、自分の甲羅を見せられてもそれが「自分の甲羅」としては見ることができない。

 これ、発達心理学的には大問題なんですね。どうやって自分が自分の事を自分として理解できるようになるのか、ということです。「自己の発達」という問題ともいえます。

 客員研究員をしてくださっている麻生武さんもこの大問題に取り組まれている一人です。のちに麻生さんが理事長をすることになる日本発達心理学会は1989年に発足した、比較的新しい学会ですが、今は会員数も4300人くらいになる大きな学会の一つです。その発達心理学会が発行する学術誌「発達心理学研究」は1990年に第一巻が発行されましたが、その第一号の論文の一つに、麻生さんの「”口”概念の獲得課程 : 一乳児の食べさせる行動の研究」があり、それが記念すべき第一回の発達心理学会学会賞を受賞しています。

 ”口”概念、ってなんかちょっと変でしょうか?「口」自体は生まれつきだいたいみんな持っていますよね。でも「”口”概念」、ここではごく大雑把に言えば「口の理解」と言ってもいいと思いますが、それはそういうわけにはいきません。新生児は口は持っていても「”口”概念」は持っていないのです。

 麻生さんが分析したのは「一乳児の食べさせる行動」です。赤ちゃんの離乳食が始まると、親はスプーンなどの食器で赤ちゃんにご飯を食べさせるようになりますよね。そしてやがては赤ちゃん自身がスプーンで食べられるようになる。そして自分がスプーンで食べるだけではなく、今度はそのスプーンで親にも食べさせようとしたりするわけです。チンパンジーはものすごく賢い動物ですが、さすがにそういう行動はまず見られません。

 じゃあそういう「食べさせる行動」が成立するのはどういう理解が必要でしょうか?それは「スプーンで食べものを運ぶ自分の口」と「スプーンで食べ物を運ばれる親の口」が「同じ口」なんだということがわかっていることが必要です。

 そんなの「同じ口」なんだから当たり前じゃない、とはならないんですね。だって自分で自分の口を見ることはできないでしょう?鏡で見たとしても、カメの甲羅の話と同じで、そこに映っているのが自分の顔で、そこに自分の口がある、という理解が見ただけでできるわけではありません。

 私は自分の口の中の感覚は直接体験できますよね。舌で上あごを撫でまわしたらそういう感覚が得られます。舌なめずりすれば唇も感じられる。でも相手の人が口の中で上あごをなめたって、自分にはその感覚は生まれません。自分の口の中の感覚を相手の人が直接共有するとも考えにくいわけです。

 つまり、自分が感覚している自分の「口」と、自分に見えている相手の人の「口」は違う感覚でとらえられるという意味で、「別の物」なわけです。別の物なのに一緒と理解できるようになるから、自分がスプーンで自分の口にご飯を運ぶように、親の口にスプーンでご飯を運ぶようになる。つまり「私の口」=「親の口」という理解がそこでできたのだということになります。これが麻生さんの言葉で言えば「”口”概念」の成立なのです。

 そう考えると、なんか不思議な気持ちになりませんか?実際、発達過程で困難を抱えると言われる子どもたちの中には、そういう理解がなかなか成立しにくい子どもたちもいるわけです。なんでそれが成立しにくいのかということを考えるときに、こういう問題もとても重要になるのですね。

 じゃあなんで「私の口」と「親の口」という違うものが「同じ口」だという風に理解できるようになるのでしょうか。

 そのことを考えるときに、コミュニケーションとか相互作用と言われるものの発達を考える必要が出てきます。コミュニケーションの中で、子どもは「自分のこの口」と「相手のあの口」が「同じ口」だということを理解できるようになる。もう少し広げていえば、コミュニケーションの中で子どもは「私」と「他者」が「同じ人」であることを理解するようになるわけです。

 私と相手は「違う人」だけど「同じ人」だ、という、言葉にすると変なことになりますが、そういう理解ができるようになることと、人と人がやりとりをすることができるようになることは一体のできごとなのです。

 発達障がい児の療育支援に遊びや会話などのコミュニケーションがとても大事なのは、そういう理由です。カメは自分の甲羅を見られない。人は自分の事を十分に理解できない。それができるようになるのは、鏡や人の目を借りて自分を見ることができたとき、人とのコミュニケーションを通してです。「人は人とのやりとりの中で、人の目を通して相手とつながる新しい世界が見え始める」という言い方もできるでしょう。

 発達障がい児が抱える様々な困難も、そういう「自分の目」と「他者の目」の関係をうまく捕まえきれないところに生じるわけですし、逆に言えば定型発達者が発達障がい児にどう対処していいか悩むのも、定型が持つ「自分の目」で発達障がい児を見てしまうために、うまく理解できずに関係が調整できないからだということになります。それはコミュニケーションがうまくいかないこと、すなわちディスコミュニケーションの問題でもあります。

 そこをどう調整していくかが発達障がい児支援の一番の肝でしょうし、実はそれはあらゆる人間関係の調整に必要なこととも言えることになります。

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