2020.06.03
主客交替とスキャフォールディング:ご質問に答えて
前回のブログについて、ある通所支援事業所の指導員の方から以下のような質問をいただきました。かなり重要なポイントについての内容でもあり、ご紹介して簡単にお答えをします。
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ブログを読ませていただきまして、質問があります。
お時間のあるときにお返しいただければ嬉しいです。
以前、遠隔支援の報告をお伝えしたときに「主客転倒」について触れました。
普段は支援員がホスト、利用者がゲストなんだけども、遠隔では「まるで我々が訪問するかのような感覚」によって利用者がホスト役に転じる姿が印象的だと、そんなようなことを申し上げました。
今回、ブログで、チンパンジーにはないご飯を食べさせようとする姿を読みまして、この主客の転倒ということこそがスキャフォールディングへの入り口なのではないかと思ったんです。
小さい子が大人の頭をなでて周囲をなごませる場面が頭に浮かびますが、こうした他者との関係を受け入れ、自分のものにしていく過程には自分も大人と同じであるという視点が育っている必要があるように思いました。そこが、私がよく分かっていないスキャフォールディングというブラックボックスの一部だったのではないかと。
あの口とこの口が同じというのは、ある意味カテゴライズできるというスキルを示していて、同じ部位があるのであれば、自分もその立場に立てると思えるということなのかなぁと。
そこに関連しまして。
今日ある先生が女の子の支援をしていたんです。
一緒に楽しく遊ぶ中で、その子のモデルになる姿と、逆にその子がした行動を半歩遅れて再現し追随する姿がありました。
後者の追随は疑似的に主客を入れ替えることになるのではないかと考えました。
ママゴト遊びなどのごっこ遊びは、こうした自分を大人と置き換える機会であり、そうした遊びが展開しにくい子には有効な接し方として「追随」いや「模倣」があるのではないかと思ったんです。
もちろん、勝手に歩き回る子に、ついていくことを支援というわけではありませんけども。
主客の転倒を今まで役割の交代という視点で扱っていました。
話し手と聞き手が固定されていては言葉の表出がなく、入れ替えなければならない、と。
そのためにボール遊びなどで攻守を入れ替えてきました。
ただ、それだけだと意図の確立などが見られず、話せるけどもオウムのような子になってしまい、「話しかけたときだけ話す子」の姿になるのかなぁ。この子のやりたいことをしていきたいなぁ、と漠然と考えていました。
役割の交代と、意図の確立がかみ合ったときに主客の転倒という次のステップになるではないかと思いました。
1 主客の転倒とスキャフォールディングとの関係
2 疑似的な主客の転倒の有効性
3 意図のある役割の入れ替えこそが主客の転倒を生む
そんなようなことを質問しているつもりです。
どうかご教示くださいますようお願い申し上げます。
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スキャフォールディングについては研修などでもお話していますが、親子関係を中心とした対人関係の中で育つ子どもの発達のありかたを理解するための概念でで、日本語では「足場架け」とも言われます。子どもは子ども自身の頭の中で理解を組み立てていくというより、大人とのやりとりの中で大人に支えられて(足場を作ってもらって)その中で活動し、理解を組み立てていきます。だからこそ「大人による支援」が意味を持ちます。(※)
子どもが理解できない部分、気づきにくい部分を大人が補ってあげて、いわば大人と子どもの共同作業の形で課題を達成する。そうやって大人との共同作業でできたことを、やがて子どもが独力でできるようになっていきます。大人が補ってくれた部分も含めて、自分自身で全体をできるようになっていくのですね。
たとえばお返事の練習で、子どもが「〇〇ちゃん!」と呼びかけられて「はーい!」と返事をし、手を挙げるようになる、という場面を考えてみます。大人が「〇〇ちゃん、はーい!」と声をかけて手を挙げる。それを子どもが見て「はーい!」と手を挙げる。やがて「〇〇ちゃん」だけで子どもは「はーい!」と手を挙げられるようになります。
この時、子どもは大人が支えてくれた部分についても、いわば大人の「真似をする」形でそのやりかたを取り込んでいるわけです。以前、皆さんの実践の中で、「子どもに先生役をやってみてもらう」というやりかたがとても面白い展開を生んでいることをご紹介したことがありますが、これも同じようなことですね。
はつけんラボの「【ヒオ先生の面白教育実践】① 納豆大キライ不登校宣言」では、小学校の支援級を担任されているヒオ先生が、まさにそういう仕組みを使って子どもを楽しくやり取りに巻き込み、それによって子どもが自ら「規則」を身に着けるプロセスを生き生きと紹介されています。
このような視点から療育支援を考えれば、それは「大人が子どもに知識を教え込む」プロセスなのではなく、子どもと一緒に課題を解いていく共同作業の中で、新しい力が子どもに生まれていくプロセスなのだ、という理解ができるようになります。子どもは単に「教えられる客体」なのではなく、「一緒に問題を解決する主体」なのです。
ということを一応念頭に置いて、ご質問に答えてみます。
1 主客の転倒とスキャフォールディングとの関係
「真似をする」ということは、「大人が主体になって能動的にやっていること」を「子どもが受動的に受け取めている」状態がまずあって、それから今度は立場を入れ替えて「子ども自身が主体になってやってみること」です。つまり、ここでご質問の中で気にされている「主客の転倒(入れ替わりの意味)」が起こるわけです。またそのような形で大人が子どもに対してモデルを示し(モデリングという手法)、それを子どもが真似して取り込む(模倣する)わけですから、これはスキャフォールディングの中で起こったできごとのひとつと考えられます。
2 疑似的な主客の転倒の有効性
ここで「疑似的」と言われているのは、実際は療育支援の中の子どもとのやりとりの中で、そういう主客の転倒(入れ替わり)が日常的に起こっているのではないか。ということに気づかれ、それを意図的に取り入れて利用することの意味だと私は理解しました。だとすれば、「疑似的」と言うまでもなく、まさに主客転倒(入れ替え)の仕組みを意図的に使った活動そのものということになります。
3 意図のある役割の入れ替えこそが主客の転倒を生む
ということで、2へのお答えが3にそのまま使えますね。なお、「役割」という概念は社会学や心理学でいろいろに用いられていますが、その人の立場で周囲の人から期待されているいろいろな行動の仕方を表す概念です。給食当番という役割は、給食を待っている(期待している)子どもに対して給食を運んできて配膳するという行動が期待されています。鬼ごっこの鬼という役割は、子を追いかけて捕まえることを、子の役割は鬼から逃げることを期待されています。そのようなお互いの期待をうまく理解して組み合わせることで鬼ごっこが成立します。そんな風にやりとりを成立させる役割は、常に「期待する」と「期待される」の主客の関係をそのうちに含んでいますので、役割を入れ替えるということはそこに「主客の転倒(入れ替え)」が必ず含まれていることになります。
なお「役割の交代と、意図の確立がかみ合ったときに主客の転倒という次のステップになるではないか」とも書かれていますが、同じ枠組みの中で理解可能です。つまり、「役割」というのは、ある意図をもって行為をする人間が可能にするもので、その意図を相手の期待との関係で調整していくことで、単なる意図的な行動ではなく、「他者の意図を取り込んだまとまりある意図的な行動」=「役割行動」が成立します。
ごっこあそびも当然そのような「意図的な行動」がかなりハイレベルで組み立てられたもので、その役割を入れ替えることで新しい行動パターンを子どもが身に着けていくわけですね。その意味では意図というものはもっと早い段階で成立していて、それがより複雑な形に展開しているのが役割行動と言えます。
ちなみにピアジェの議論でいえば、意図的な行動の成立は8~9か月ごろから見られる「目的=手段」関係の成立の段階では十分見出すことが可能でしょう。つまり、おもちゃを取ろうとしたら布で隠されてしまったとすると、それまではもうわかんなくなっておもちゃをとれないのですが、このころに布を取り除いて取れるようになります。
そのとき、「布を払いのける」という行動(「手段」としての行動です)と、「おもちゃを取る」(「目的」となる行動です)という二つの行動を組み立てることで「障害物を取り除いて目的を達成する」という意図的な行動が可能になっていると考えられるわけです。
さらに初歩的な段階でいえば、赤ちゃんがじっと何かを見つめ、それが動くと目でそれを追う(追視)、ということが観察されます。こういう状態を大人が見ると「赤ちゃんが物を見ようとしている」という「意図」をそこに読み取ることになります。赤ちゃん自身が「自分はそれを見ようとしているんだ」と理解しているとは考えられませんが(※※)、人から「意図的な行動」と解釈されるような行動が手掛かりとなって、大人がそれに自分の意図的な行動を絡み合わせてやりとりを展開していくことで、やがて赤ちゃんはお互いの意図を絡み合わせて行動するようになっていくのです。これもまたスキャフォールディングの一種と考えてよいでしょう。
※ スキャフォールディング(scaffolding)の元の意味は、建築現場でよくみられる「足場」のことです。ヴィゴツキーの心理学理論に端を発する文化心理学的な研究で使われ始めた概念で、今では発達心理学の中で普通に使われる概念の一つとなっています。
※※ なぜなら、赤ちゃん自身が「私」という主体の「意識」、あるいは「自己概念」を持っているとは考えられないからです。「赤ちゃんが生き物として生きている」ことと、「赤ちゃんが自分の意図を意識し、調整する」ことの間には天と地ほどの差があり、この主体としての意識、あるいは自己概念も発達とともに形成されていくものです。前回も口概念の事でご紹介した客員研究員の麻生武さんが、この問題についてまたとても重要な本を出版されました。「私の誕生:生後2年目の奇跡」(東大出版会)という二巻本です。生後二年目、幼児はほかの幼児や大人とのやりとりの中で、お互いの意図を調整しあいながら、自分の行動を組み立て、そこにが生まれてきます。そういうプロセスを徹底した観察と、深い理論的な分析とで解明しようとされた大著です。
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
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