2020.06.11
こだわりの話:大人から見た目、子どもから見た目
自閉のお子さんによく「こだわり行動」という名前が付けられたふるまい方が見られます。そして場合によって「こだわり行動をなくす」ことが療育の課題として設定されることもあります。
こだわり行動としてよく言われるのは、たとえば散歩時のルートがいつものルートでなければパニック状態になるとか、ミニカーを一直線にきれいに並べてじっと見ているとか、特定のものしか食べない(偏食とも)とか。
それぞれの行動の内容はいろいろで、行動の複雑さもいろんなレベルのものがあります。そういういろいろなものが「こだわり行動」という一言でくくられるのは、共通点があるからです。ではその共通点は何でしょう?
まあ、シンプルなことですね。まず一番目に、こちらから見ていて「なんでそんなことを繰り返すのか、意味が分からない」ということ。もっと柔軟にいろんなふうに発展させたら面白いのに、なんで「意味のない」同じことばっかり繰り返しているの?と思えてしまう。その子の行動の「意図」がわからない。だから「こだわり行動」という「障がい」からくる問題行動と理解する。
なんで問題行動と感じられるかというと、これが二番目の理由ですが、コミュニケーションを拒否されているように(あるいは成り立たせる力が無いように)感じられるからです。私も初めて自閉の子に接し始めたころそうだったですが、「わけのわかんない行動にこだわっている」子が「不幸」にも思え、「これじゃあかわいそうだ」と思って、少しでもその「こだわり」をなくして、遊びを発展させようとする。
そういう「善意」でやっている遊びに新たな要素を付け加えるようにかかわっていったり、話しかけたりするんだけど、それが無視されたり拒否されたりする。そんなことが繰り返されると、コミュニケーションの手掛かりが全く失われたように感じてどうしていいかわからなくなってしまい、途方に暮れる、という感じも出てきます。
このあたりでそういうこだわり行動への対応の仕方に、大雑把に言えば二つの方向が分かれてくるように思います。ひとつの方向は、なんとかそれをやめさせようとする方向。「こだわり行動をなくす」みたいな姿勢ですね。そのためにいろいろな手段を試みます。なにしろそういう状態では、人とコミュニケーションしながら一緒に行動するという社会的な活動にスムーズに参加できないわけですから、「その子の将来のために」なんとしてもそれをなくして(または減らして)いかなければならない、という使命感も生まれてきます。
もうひとつは、その子の「こだわり」に付き合うか、あるいは「大目に見る」方向です。よくわかんないんだけど、その子にとってその行動は意味があるんだろう、と思ってそれを「尊重」する。
この二つの方向、別の言い方をすれば、ひとつは軸足を「大人の意味の世界」に置いて、なんとかその世界に少しでも入れるように頑張って療育する、というもので、もう一つは軸足を「その子の意味の世界」に置いて、そこを大事にしてその子の世界を育てようとする、というものです。
そのどちらの側に足場をおいても、もうひとつのやり方は「おかしい!」と思えたりします。大人の側に軸足を置く立場からは、子どもの側に軸足を置くやりかたは「本当に子どもの将来の事を考えていない」無責任さと見える。逆の立場からは相手の事が「大人の都合で子どもを引き回し、子ども自身を否定している」と見える。
まあ、現実の場面では完全にどちらか一方だけで物事が進むことはまずありません。子どもを大人の世界につなげるために、こだわり行動を強制的にやめさせようとしても、パニックが激しくなってうまくいかない。結局多少なりともその子のこだわりは認めながら、そうでない行動を引き出していく形になっていきます。そうせずにパニックが激しくなってそれを薬で押さえようとしたり、あるいは暴力的に抑え込むようなことも現実にありえますが、そういう乱暴なやり方だと、仮に子どもが強制的にそれに従わされたとしても、自分として生きる力自体を失っていくことにもなって、なんのための療育なのかわからなくなります。
子どもに軸足を置く姿勢でも、そこをベースにしながらやはり現実の社会との接点をどう作っていくかを考えないわけにはいきません。「自分が社会の圧力からこの子を守り続ける」という形で頑張り続けても、いずれその子は自分の手を離れて生きざるを得ませんから、最後までそれを貫徹することは無理です。だから福祉を含む何らかの形で社会とつながり、社会の中で生きられる姿を作る必要がある。
障がいのあるなしにかかわらず、もともと人は一人で生きられませんから、どこかで自分とは異なる他人との折り合いをつけていく必要があるのですが、その時ひたすら相手に合わせるだけになると、自分を失って自分の幸福が見えなくなる。逆に自分だけのやり方を貫いて自分を守ろうとすると、他の人と切れてしまってどんどん孤立するか、あるいは逆に他者を無理やり自分に従わせて他者を不幸にすることになってしまう。
引きこもりの結果、激しいDVに陥ってしまうのは後者が不幸な展開をしたときですね。つまり本人は社会と折り合えないので家に引きこもる。その時、生来気性の優しいタイプの人なら、それはそれでおだやかに暮らせるけれど、気性が荒い、生来ものすごく活発なタイプの人だと、その状態に激しい怒りが蓄積する。その怒りが家族に向けられて激しいDVになっていく。
前者の場合は、本人が気性の優しいタイプの人なら、決して納得しているわけではなく人に従って生き続け、自分を失い、理不尽さに耐え、幸福を感じられないまま、場合によって世の中への恨みを積み重ねてそれを自分に飲み込みながら生きていくことになる。気性の激しいタイプの人ならどこかで耐え切れなくなって激しい他者への攻撃に至る。
障がいのあるなしにかかわらず、そういう話は世の中に満ち満ちていますし、結局どちらの道を進んでも、それだけでうまくいくことはありません。両方の折り合いのつけ方の問題だと私は思っています。
ただ、ひとつだけ「どちらかだけではだめ」といっても、私は両者を全く同じ平面に並べて考えているわけではありません。療育支援のベースはあくまで「その子の視点」に置かれなければならないと思っています。それを足場に大人の社会の理屈にも対応できる力を育てていくことが大事で、その逆ではないと考えています。
なぜかというと、その子の人生はその子のもので、その子自身が自分の力で切り開いていくしかないものだからです。その子に代わって生きることはできません。またその子を自分の持ち物のように自分の価値観だけで支配する気持ちにもなれません(※)。そういう接し方で子どもが幸せになれるとも感じません。
大人ができるのは子ども自身が自分でそういう力を育てていくうえで応援することだけです。その応援を受け取って活用していくのもその子自身です。特に変化がゆっくりな昔の時代なら、親の言うことを聞いてそのままその生き方を踏襲していけば、なんとか生きていくことができましたが、今は親の生き方を受け継いでも社会がどんどん変化していくので、それでは生きていかれないといういうことが普通になっています。だから、子どもは常に自分の力で自分の生き方を切り開いていくことが求められざるを得ない。その意味でも「子ども自身が持っている力を大事に育てる」ことが必要です。
大人ができるのは、そういうふうに自分の力を大事に伸びようとしている子どもの姿を見つめ、それを支えてあげることでしょう。子どもはそうやって大人に認められることで自信を持ち、力を伸ばしていき、そしてその子なりの人生を自分なりに歩んでいきます。出発点はあくまでも「その子の興味関心を大事にしながら、それを肯定し、自信を持ってもらう」こと、そしてその力を使って自分以外の人たちとの折り合いを工夫できる力を育てる援助をすることだと考えています。
当事者の視点からの療育支援が大事だというのも、そういう視点からの話になります。その子自身の持っている自然な感覚、物の理解の仕方を足場にしたその子の力の育成が大事だからです。
※ 儒教的な倫理観では、子どもが絶対的に親に従うことをすべての社会的な道徳・秩序の根本と考えています。ですから「為人臣之禮:不顯諫。三諫而不聽,則逃之。子之事親也:三諫而不聽,則號泣而隨之。(臣下の礼として、主君をいさめて三度聞き入れてもらえなければ、主君のもとを去りなさい。親につかえる子は、三度いさめて聞き入れられなければ、号泣してこれに従いなさい)」と言われるように(礼記、曲礼下)、ある意味では子どもは親の所有物のような考え方を基礎に持って世の中の秩序を成り立たせようとしています。ですから、孝行な子どもをたたえ教える「二十四孝図」には、自分の親を養うために、自分の子どもを殺してしまおうとするような極端な話まで出てきます。日本の場合は間引きという形の、出生直後でまだ人と認められていない段階(神の内?)での子殺しはかなり行われましたが、それ以降はむしろ「姥捨て山」の話にあるように、親の方が身を引く物語になったりします。
ただし儒教でも親の暴力的な支配が理想とされていたわけではなく、親に対しては当然に子を慈しむことが要求されています。親が子を慈しむからこそ、子は喜んで親に従うのだ、という理屈が背後にあります。ただそのバランスがうまく取れない場合には、親を絶対的に優先する、というのが本家の方の儒教的な倫理観・秩序観になります。よく日本も儒教的と誤解されていますが、このような基本的な秩序感覚の面では歴史的には常に異なり続け、完全に一致することはありませんでした。江戸時代以降も上のように本来の儒教では「忠<孝」なのですが、日本では「忠>孝」と理解されており、それが明治維新以降には「忠君愛国」の日本的な強調につながっていき、戦後になってその全体が否定されるに至りました。「孝」や「忠」等、表面的には同じ言葉を使っても、その現実的な意味はそれを使う文化によって全く変わってしまうことのいい例の一つです。
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