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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.06.23

障がいは個人の問題か社会の問題か

療育支援は誰のためのもの?と考えると、まあ「その子自身のため」という答えに反対する人はあまりいないのではないかと思います。

けれども、「じゃあ何がその子のためになることなの?」と問うと、それはほんとに答えが千差万別になります。よく問題になるのは、「今のこの社会で生きていけるように、少しでもできることを増やす」という考え方と、「その子自身が大事にしているものを大事にする」という考え方の対立です。

前者の方の考え方は、障がいを「その子の中にある問題」とか「その子自身が抱えている問題」という見方に結びつきやすく、「解決すべきはその子自身の問題だ」という理解になります。もちろん「そう思わないけど、現実の社会がそうなっているのだから、そうするしか仕方がない」という考え方の方もあります。また、ご自分が努力して自分の生き方を勝ち取ってきているのだ、というある種の自信を持っている方も、そういう見方になりやすいように思います。

後者の考え方は、障がいは「社会の問題だ」という見方に結びつきやすくなります。それは障がいは「社会がその子をそのように扱う」から障がいなのだ、という理解につながっていきます。そうするとその子自身を理解しないで健常者が自分の理屈に従わせようとするから障がい者が苦しむのだ、ということになっていきますから、「社会が変わること」が障がい問題の解決だ、という見方にもなっていきやすいでしょう。

前者の考え方に立てば、後者の考え方は「大人の自己満足のためにその子を甘やかしている」というふうに感じられやすくなるし、後者の考え方に立てば、前者の考え方は「子どもを無視して自分に従わせようとする虐待みたいなものだ」というふうにも感じられたりするでしょう。

わかりやすいようにかなり単純化して「対立する二つの極端な見方」として説明していますが、個人を中心にして理解する見方と、社会を中心にして理解する見方の対立というのは、別に今に始まったことではなく、昔から延々と世界中で繰り広げられてきたものですし、また障がいの問題に限らず、人がかかわるあらゆることに繰り返されてきた対立とも言えます。

脳の問題なのか、心理の問題なのか」でも「脳」に焦点を当てる考え方と「心理」に焦点を当てる考え方の二つが対立している話を書いて、結局それは一つの出来事をどちらから見て解決しようとするか、についての「見方の違い」の問題で、どちらか一つが真実だ、という話ではないでしょう、ということを書いたように、ここでも前者の考えかと後者の考え方は「障がい」というひとつの出来事についての二つの側面からのアプローチにすぎない、ということになります。

実際にはどちらかひとつの見方で全部が解決することはありえず、一方だけを強調すれば他方で解決される問題が見失われておかしなことになり、その逆を強調しても同じことが起こる。結局行ったり来たりしながら進んでいるのが現実だと思えます。(※)

ただし、その時々では個人に焦点を当てて考えることがより重要な場面と、逆に社会に焦点を当てて考えることが重要な場面があるような気はします。特に障がい児の保護者の方は、どうしても「個人の問題」として見ることを世の中から強制されている傾向が強いので、そういう場合には「社会の問題」で(も)あることを強調することが重要になることが多いと思います。

福祉に携わる方はよく言われるように、「唯一の正解」などあるわけもなく、それは人生に唯一の正解がないことと同じでしょう。ある時に注目していることが唯一のものではないことを意識しつつ、揺れ動きながら少しずつ進んでいくこと以外には道は実際はないという、これもまた平凡な結論になるのでしょうね。
 

※ こういう見方を図にあらわしたものとして陰陽思想の「太極図」がありますね。これは世の中すべての事が円の真ん中を中心にしてぐるぐる回っている、というイメージで理解するとわかりやすいものです。そうすると陽の部分(白い部分)が太いところは陰の部分(黒い部分)が細くなり、陰の部分が太くなっていくと陽の部分は細くなっていく、という変化を表しているものとみることができます。世の中あらゆることが陰と陽で成り立っていて、その時々でどちらが優勢かの違いはあってもそのどちらか一方だけになることはない。時に陰が優勢になることもあり、その時は陽が背後に隠れていくけれども、陰が最盛期になっても中心に陽が現れ(穴のような部分)、やがて陰陽が交代する。その繰り返しが世界の在り方だ、という考え方です。
似たような話を西洋文化で見ると、弁証法的な考え方がそれに当てはまるのでしょう。「正(陽に相当?逆でもいいですが)」と「反(陰に相当?)」のせめぎあいが世界を動かし、やがてそれが統合され(止揚され)て「合」になり、新しい世界が生まれる。けれどもそこでまた新たな正と反の対立が生まれて次の世の中を突き動かしていく。すべてはその繰り返しだという見方です。
両者の違いを強調するとすれば、陰陽思想では「いつまでたっても同じところをぐるぐる回る」という図なので、「発展」というものが問題にされていないのに対し、弁証法は「上から見ると同じところをぐるぐる回っているように見えるが、横から見るとらせん状に上に発展している」という考え方をとるところでしょう。

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