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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.06.27

ピアジェとリズム(2)知能の発達の前提としてのリズム

ピアジェとリズム(1)」では、ピアジェが知能の発達について考えるとき、それを生物が外界の物を取り込んで生きていくための体の進化や、その体を使っての行動の進化、発達というところに足場を置いて考えるのだ、という話を書きました。物を理解する、ということは決して頭の中の出来事ではなく、体全体がベースになって外側の世界とのやりとりの中で生み出されていくのだというわけですね。知能はそこから生まれるという話です。

もちろん人が物を考えるとき、必ずしも体を使っているわけではありません。何もせずに目を閉じてじっとしているように見える人が、別に眠っているわけではなくて「頭の中で考えている」という状態はいくらでもあります(※)。

では、この行動レベルで成立する「思考」とか、言い換えれば「体で考える」といった人間の活動が「頭の中で考える思考」となるには何が必要なのかと言えば、それはシンボルということになります。つまり、実際の物を扱うのではなく、頭の中のイメージとして動かす、という働きが乳児期に実際に作られていくのです。

ピアジェの研究で有名なのは、「見えないおもちゃの移動を理解できる」ことを示す実験です。赤ちゃんが遊んでいたおもちゃを取り上げて、目の前に置きます。当然赤ちゃんはそれを取ろうとする。その瞬間布で隠してしまうと、赤ちゃんは「あれ?」という感じでおもちゃが取れなくなってしまいます。もう少し発達すると赤ちゃんはその布を手で取り除けておもちゃをとることができるようになります。ところがそうなったところで、赤ちゃんが布を取り去る前に、赤ちゃんに見えるように別の布の下に隠しなおします。そうすると赤ちゃんは最初の布の方を探して、移動をしているのを見ていたはずのもう一つの布の下からは探せないのです。けれどもこれももう少し発達すると見ていたら新しい布の下からとれるようになります。ところが移動させるおもちゃを手の中に隠した状態(目に見えない状態)で移してやると、もうとれなくなるということが起こります。

つまり、「目に見えない」ものの「移動」を頭の中でイメージして行動する力が育っていないから、こういう最後の段階のような誤りが起こるのだと解釈可能な現象がそこに見られます。そういう段階を経て、手で隠して移動させても、すぐに新しいところからとれるようになるわけですね。つまりは「見えないものの移動」をうまくイメージして、それに合わせて行動できるようになったと考えられます。

こんな例にもみられるように、あかちゃんは見えている世界をイメージの世界に置き換えて、そのイメージの世界でいろいろ「考える」ことができるようになっていきます。将棋を指すときにも、次の一手を決めるときに、実際に盤上の駒を動かして検討することは許されませんので「金をこう動かしたら相手の飛車はこう動くだろう。そしたら私はここに歩を打って、……」など、頭の中でイメージを動かして考えていきますよね。プロになると20手くらいまで先を何通りも読むようですがそんな感じです(※※※)。言葉の世界は「ことば」というシンボルを使ってそういう思考の世界を作っていくことになります。

 

そういうふうに、最初は体を使った行動のレベルで「体で考える」ということが成り立ち、それをベースに言葉などのシンボル(あるいはこれまでこのブログでは記号という言葉で代表させてきましたが)を使って「頭で考える」というステップに子どもは発達していきます。そしてその頭で考えるしくみがだんだん具体的なものイメージの世界を空想的なことも含めて勝手に広げるような形から(前操作的知能)、いろんな視点を組み合わせて理屈立てて考えられるようになり(論理数学的知能の形成)、その思考が具体的なものについてのもの(具体的操作的知能)から抽象的なことについての思考(形式的操作的知能)へと進んでいく。それがピアジェにとっての「知能の発達」の基本的な展開のイメージなのです。そしてそれぞれの発達段階における知能はそれに特有の形態(ゲシュタルト・構造)を生み出す。そのような考え方のエッセンスを短くまとめると、「ピアジェとリズム(1)体の進化と思考の発達」に引用した以下のような表現にもなるのですね。

「結局、知能は、主体と周囲の客体とのあいだの相互作用にたいして、一定の形態(ゲシュタルト)をあたえる「構造化」のはたらきとして、あらわれる。」

さて、その次の問題、ここに「リズム」がどう絡むのかということです。上の文章の少し後にこんなことをピアジェは書いています。

「本能的行為ないし反射的行為のばあいに問題となるのは、わりあいに完全な、融通のきかない、連続的なメカニズムである。それは、周期的な繰り返しによって、つまり、「リズム」によって、はたらいているのだ。……じっさい、基本的行動の動機となっている器質的欲求ないし本能的欲求は、周期的である。つまり「リズム」の構造に従っているのだ。」

ここにも説明がいるでしょう。私たちの体の基本的な働き、たとえば呼吸とか心拍とか体温調整とかは、生まれながらにその能力が出来上がっています。遺伝子に書き込まれたプログラムが体のつくりを決めて、その体のつくりが働くことによって、ある意味学ぶ必要なく自動的にそういうことができるわけですね。また基本的な行動、たとえば目のようなものがあるとみつめる、手に物が触れると握る、口の中にとがったものが入ると吸い始める、口の中に液体が入ってくると飲み込む、といった行動も、学ぶ必要なく自動的に起こる遺伝的に備わった行動で、反射と言います。本能というのはここでは生物学的用語としての本能で「あの人は本能のままに生きている」いった普通の使い方ではなく、これも遺伝的に最初から与えられているある程度まとまりを持った目的的行動のセットのようなものです。

生きていくうえでは決して欠かせないようなこれらの基本的な行動の仕組みは、すべて一定のパターンでリズミカルに働くのだ、ということをピアジェは指摘しています。そのリズミカルな動きに、生まれた後の経験が取り込まれて同化と調節が進み、だんだん複雑な、より的確な行動ができるようになっていくと考えられるわけです。そしてそれがやがて実際の行動のレベルから頭の中でのシミュレーションのような思考の世界へとつながっていく。

とうわけですから、ピアジェにとっての知能の発達は、その大前提として生命が最初から持っているリズムをベースに進展するのだという理解になるのですね。ピアジェ自身はそのことについて、理論的に言うだけで特にそれ以上の研究を展開してはいないように思いますが、それにしても「発達とは何か」を考えるうえでこれは大変に重要な指摘だと思います。

ただ、ピアジェがリズムについて言及できるのはここまでなのですね。この議論だけでは発達障がいを含む発達の問題の大事な側面を不十分にしか理解できなくなります。たとえば「なんで歌やお遊戯などのリズム活動が幼児で特に大事になるのか」「自閉的な子にそれが苦手な子が多いのはどうしてなのか」ということに、この範囲のピアジェの議論では迫れないことになります。

その理由についてはまた回を改めて書いてみたいと思います。

 

※ ちなみに、思考は必ずしも「頭(脳)の中に閉じ込められた出来事」と考えず、体の活動と一体のものと考えた方がいい研究結果もあります。たとえば頭の中で語っている時、実際にその言葉を話すときに使う筋肉が目に見えない程度に微妙に活動する(神経が興奮する)とか、ピアノを演奏できる人がピアノ曲を思い描くと演奏で実際に使う筋肉が同じように微妙に活動するとかいうはなしです。これらは頭の中でイメージを思い浮かべたり、それについて思いめぐらすことが、実際の身体的な動きをうんと縮めて起こるもの、「縮約」の形で起こっているものと解釈するとわかりやすくなりますし、思考の進化発達ということを考えるうえでも説得力があります。

※※ この現象の意味についてのピアジェの解釈には、そのご様々な批判と対案が50年にわたって続いています。ピアジェの書き方には「それは赤ちゃんが見えなくなったものがなくなったと思てしまうことなのだ」と言っているようにも読めるところがあるので、そこだけとりだせばたしかに問題があります。別の形で実験すれば、隠したものはその布を取り去ればまた現れるはずだという(いないいないバーのような)予想が3ヶ月くらいでもできていることを確かめることができるので、その意味では「なくなった」と思っているわけではありません。でもピアジェの議論の一番のポイントは、「見えていること」と「それを手掛かりに行動を組み立てること」の関係の問題にあります。つまり隠したものをとれるのは「布をとる」という行動と「おもちゃをとる」という行動の二つを目的手段関係で組み合わせる力ができたときに「隠れて見えなくなったものを布をとることで見える状態にし、その見えたおもちゃをとることができるようになる」わけです。そういう見えの世界など知覚的な世界と、行動の世界の関係で理解の進展を見る、というピアジェの議論で一番面白く、大事な点を無視したかのように、問題を単純化して批判する議論が、この現象に限らず、三山問題や数や量の保存課題など、いろんな問題についてかなり多く行われていると思えるのですが、それではピアジェがかわいそうに思えます。

比較的最近ではサルでも前頭葉を削除してしまうと同じような失敗が見られるということから、子どもの行動の抑制が発達していないからミスをするんだ、という議論もあるようですが、確かに思考には上に書いたような行動の縮約といった面があり、そこには体の動きを一部または全部抑制する働きが必要ですから、無関係でないことは確かでしょうが、これなどは「脳の問題なのか、心理の問題なのか」で説明したことで理解したら済む話なので、特にピアジェの批判にもなっていませんし、対案を示したことにもならないと私は理解します。

そういう表面的な批判ではなく、ピアジェの理論の本質的な問題についての原理的な批判ということについては、ピアジェの大著「知能の発達」も訳されている、客員研究員の浜田寿美男さんのこの講義このインタビューをご覧ください。

※※※ プロと言ってもさらに藤井聡太さんレベルになると、もうあまたの中でコマのイメージを動かして考える、ということも超えてしまうようで、そういうイメージ抜きで「考える」ことができるようです。思考は一般的に具体的なものから抽象的なものへと発達していきますが、そこで使われるツールも「実在の物」から「頭の中の具体的なイメージ」、「言葉など記号を使った抽象的な概念」などを経て、具体的なイメージを超えた「抽象的な何か」に発達していくのかもしれません。そのようにツールが抽象化するほど、効率的に思考が展開するようになる、というのも一般的な傾向です。その結果なのでしょうか、藤井さんの場合は20手どころではなく、41手詰めの問題を25秒で解いたとか、そんな超人的な話もあります。

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