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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.06.28

ピアジェとリズム(3)リズムの調整の問題

前々回前回と、ピアジェの知能の発達に関する議論の中で、リズムということがその前提になるものとしてとても重視されているということを説明してみました。

 

ピアジェについては前回の二番目の注のところでも少し紹介したように、たくさんの批判的な実験などが行われていますが、そこでも書いたように、私から見るとそれらの批判のかなり多くはピアジェの議論の一番重要な問題を外して、表面的なところでしか批判ができていないと思えます。液量の保存実験についてもアメリカの大心理学者のひとりであるブルーナーがわりと若いころに頑張っていろんな実験をやって批判しようとしましたが、結局ピアジェには「何か誤解をされているのだと思う」と言われておしまいです。(実際そう私も思いました)つまり、ポイントを外した揚げ足取りの批判にしかなっていないと感じられるわけです。

とはいえ、そういう揚げ足取り的な批判を超えて、極めて重要な点での批判も展開されています。その代表的なものはヴィゴツキーによる批判です。ピアジェは思考(知能)の発達や言葉の発達というものを個体の行動や記号理解の力がだんだんと高次になっていく過程として分析しました。そして個体の内部で成立したそういう思考の力が、のちに他者とのやりとりに応用されて社会的な相互作用を可能にするのだ、というふうに「個人⇒社会」という議論の組み立て方になっています(※)。

それに対してヴィゴツキーは正反対で、子どもはまず他者とのやりとりの中で思考や言葉の基本的な働きが形成されていき、それがやがて内面化する形で、「頭の中の思考」や「頭の中の言葉」になっていくのだ、という視点で研究したわけです。つまり図式化すれば「社会⇒個人」ですね(※)。

別の言い方でやや図式化していえば、ピアジェは「人と物の関係」で発達を理解する視点が中心だったのに対して、ヴィゴツキーは「人と人の関係」で理解する視点が中心になっているように思えます。けれどもその先の問題は「人と物と人の関係」だということになります。

このあたりのことを重視するのが、現象学の「間主観性」の概念などに着目しながら、「赤ちゃんは人と物との関係をどう理解するようになるのか」ということを追求していった流れになります。「赤ちゃんが、お母さんの見たものに注目する」などの「共同注意」に関する一連の研究などはその流れとして見ることができます。

その現象学的な視点も取り込みつつ、さらにピアジェの議論の限界をさらに掘り下げて問題にしていかれたのが客員研究員の麻生武さん浜田寿美男さんたちということになります。

もう一つ重要かなと思えるのは、ピアジェが問題にするような「発達段階」というものがそれほど明確に存在するのだろうか、ということについての疑問です。この発達段階という考え方を単純に理解すると、2歳ごろから前操作期に入った子どもは、あらゆる心理的な活動が前操作期の知能によって支配され、具体的操作期に入った7歳の子どもは、基本的に具体的操作期の知能によって支配される、という風にも考えてしまいがちですが、実際にはそれらの知的な働き方はだんだん積み重なっていくと考えた方が実態にもあっていて、どの年齢でもそれまでに獲得された知的な仕組みを全部使えるわけです。

そのこと自体についてはピアジェもそういわれれば「そりゃそうでしょう」と答えると思います。けれどもそこから派生するさらに大きな問題は、ピアジェがその発達の方向性を「知能が操作的知能(論理学や数学を可能にするような思考の形)に到達する」という一方向性で単純化してしまっている、ということです。これは麻生さんや浜田さんたちも批判しているように、発達というものを「一つの目標(完成態)に向かう固定的な予定調和的過程」ととらえてしまう、という問題も引き起こすことになります。

たとえば発達障がいへの支援の問題に絡めて言えば、「支援とは何なのか」を考えるうえで、「学校での成績がよくなるように」とか「今ある会社で適応できるように」といった単一の目標に向けて支援することが果たしてその子にとってどんな意味を持っているのだろうか、ということを考え直すことにもつながります。

新型コロナの問題でも世界はこれから大変化を続けていくことが予想されますし、会社もどんどん変化していきます。そこで必要とされる力もどんどん変わっていく。今の学校で要請されようとしている力が本当に生きる力につながっていくのかはそう簡単には言えないわけです。その変化には「多様化」ということが必ず含まれていくはずです。つまり単一の目標に向かうというイメージだけでは、支援としてはとても狭くて限界が大きくなってしまうという可能性を考える必要があります。

実際、例えば私たちが日中韓越で比較研究をやってもわかるように、社会が違うと発達の目標自体が異なってきます。そしてそれぞれの社会の中にも全員一枚岩で同じ発達ということはなく、個人でいろいろに違うことが大前提としてあります。違いながら調整してある程度は一致させているだけです。一人一人が、いろんな考え方、価値観を持った周りの人たちと試行錯誤的に模索しながらそれぞれの人に合った状態を生み出していく、そういう過程として発達を考える必要が今後ますます大きくなることが予想されます。ピアジェの議論ではそういう重要な部分がうまく理解できません。基本的に「人間である以上、時代が違っても文化が違っても同じように発達する部分」を解明しようとしてきたのがピアジェなのですから。

このように「試行錯誤の模索過程」を経て、「その子なりの<正解>を見出していく創造的な過程」として発達を柔軟に、多方向への展開として見る考え方は、自己組織化という理論なども参考にしたり、いろんな形で進んでいますが、これからの重要な研究方向の一つと思えます(※※)。

 

さて、ピアジェにはこれらのいろいろな批判がありますが、それらの批判のポイントを踏まえながら、次に彼がリズムというとても大事な視点を理論的には指摘しながら、それが十分生きていないように思えること、そして発達支援というような実践の意味をちゃんと説明できなくなってしまう理由を考えてみます。

突き詰めてしまえば、勘所は割とシンプルな話になります。まず一つはピアジェの議論が一貫して「個人」に焦点を当てて考えるため、リズムは人と人との間で調整される、ということの重要性に注目されず、発達に不可欠の対人関係の変化の中での発達、という議論ができないということです。そうすると、子どもと一緒に歌を歌うと言った支援の大事さがよくわからなくなります。

この問題は二つ目に、異なるリズムの間の調整の問題が見えなくなることにもつながります。たとえばリズムというのは人によって結構ことなります。その異なるリズムを同じ歌を一緒に歌ったり、お遊戯をしたりして調整し、揃えるということが、やりとりの発達にとって一つ大事なポイントになるのですが、そこがうまくとらえられなくなります。そうすると、たとえば自閉的な子でそういうリズム活動を一緒にすることがあまり好まれないことが多い、ということの意味が捕まえきれなくなります。またADHDで問題になる衝動的な行動なども、「ほかの人とリズムを合わせ、自分の気持ちを調整せずにひとりで突っ走ること」という風に考えれば、まさにこの問題につながっていくのですが、そこが見えにくくなる。

発達障がいの子どもたちが経験する困難の多くは、この「ほかの人のリズムと自分のリズムを調整すること」から生じているという見方も可能ですし、そこに対する支援も「異なるリズムとの関係の取り方の工夫」がおおきな意味を持つことになりますが、その視点が出てきにくいわけです。

さらに三つ目として、ピアジェの議論は「一人の中でバランスがとれる(均衡化)」という点を発達にとっての重要な展開として見るわけですが、ちょっと単純化していえば、それは「ひとりの中になんでも揃っている」みたいな話になってしまいます。ところが現実に私たちがこの世の中で生きていく時には、人はみんな「不完全」であることが重要な意味を持っています。

リズムという言葉でいえば、それぞれの人がリズムを持っていますが、お互いのリズムを調整して一つの大きなリズムを作っていく時に、「みんな同じリズムになってしまう」だけではなく、それぞれのリズムが保たれながらかつその組み合わせ方で調整される形が大事になります。そうすることによって「みんな同じ」ではなく、「それぞれの個性が生きて全体ができる」形が生まれていきます。その時の一人のリズムは、全体から見てその「一部」であって、「完全」ではないわけです。

素朴な話、男は男で女ではないですし、女は女で男ではありません。その体はそれぞれのリズムを生み出します。男を基準に見れば女は「不完全」ということになるかもしれないし、女を基準にすれば男が「不完全」とも言えます。でもお互いに違うからこそ、この人間の世の中は成り立つわけです。人間のよのなかは、そういう役割の違い、性格の違いといった「個人差」がとても大きな働きをしていて、そこがなければうまく機能しないわけです。そういう社会の中での現実的な多様な生き方の発達、という問題にも迫れなくなります。

けれども発達障がいの問題を考えるには、発達障がい者が生まれながらに持つ特性と、定型発達者の特性のずれがいろいろな困難を生んでいるという現実がとても大きく、それぞれの特性を認めたうえでそのずれを調整することが支援にとっての大きな課題なのですから、そういう「多様性」を前提とした、多面的で柔軟な発達の支援への視点が、ピアジェの議論からは生まれてこないのですね。

 

以上、いろいろ書いてみましたが、「ピアジェの凄いところ」にも書きましたように、個人的にはピアジェは大好きな心理学者ですし、そのすごさはどれほど強調しても足りないくらいだと思っています。そしてその議論はその時代の個人をベースにした心理学の議論を最高レベルに展開したものと思うのですが、だからこそ、これからの発達支援の在り方を考えるうえでも、しっかりと乗り越えていかなければいけないポイントを指し示す議論でもあると思っています。彼の議論を原理的なところからしっかり批判することで、次の新しい議論が生まれてくることは間違いないと思えるからです。

 

 

※ ピアジェはその二つは結局同じ構造なので、どっちがどっちということではなく同じことを別の側面で発揮しただけなのだ、という言い方も強調するようになりますが(たとえば「知能の心理学」)、この後に説明するように個人の行動と他者との相互作用の質的な違いを論ずることはできておらず、その意味であまり説得力があるとは思えない言い方です。ヴィゴツキーは単純化すると「社会(頭の外の対人関係の世界)⇒個人(頭の中の個人的世界)」という図式になっているということになりそうですが、ただ彼が「社会」というものや「個人」というものをどういう意味で考えたか、ということまで問題にすると、素朴な意味で「頭の外」と「頭の中」を区別しているわけでもなさそうにも思えるので、その発想は単純ではないようにも思えます。この辺りはヴィゴツキーの丁寧な読み込みが必要になりますが、私には今はその作業はできません。

※※ 我田引水で失礼しますが、私たちが形成してきた「拡張された媒介構造(EMS)」の概念も、人のコミュニケーションが揺れ動きながら組みあがって社会を作っていくプロセスを説明しやすくするツールの一つ、という役割も持っていると考えていますし、また「文化」というものを固定的に考えない「差の文化心理学」の議論も、個人にも還元できず、社会にも還元できない「文化」という特殊なものを柔軟に把握するための理論的な仕組みになります(詳しくは拙著「文化とは何か、どこにあるのか」を参照していただければ幸いです)。またピアジェについての理論的な批判については拙編著「ディスコミュケーションの心理学」の第九章にも展開してあります。こちらもよろしければご参照ください。

 

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