はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.08.15

当事者が自分の言葉を持ちにくい理由(1)まずは心の理論から

これから書こうとしているのは、公開講座の当事者インタビューから考えたことです。発達障がいの特性を持つ方は、自分の感じていることや経験をうまく言葉にすることがむつかしいことがあるようです。つまり、相手に対して自分の気もちをうまく伝えられないわけですね。当然フラストレーションがたまりますから、いろんなトラブルが起こります。

こう書くと「そうか、発達障がいの人は正しい言葉遣いを身に着けることがむつかしいという特性を持っているんだな」と理解されやすいだろうと思います。ところがそういう見方自体が、とても自己中心的な考え方で、そう考えてしまうことでますます発達障がいの人とのコミュニケーションをむつかしくする場合がある、と思えるわけです。

ではどう考えた方がいいのかというと、「正しい言葉遣いを身に着けられない」のではなくて、「自分の言葉を持ちにくい状態に追いやられている」のだということです。これについて少し丁寧に説明をしてみたいと思います。

 

そのことを説明するための準備として、まずは最近読んだ学芸大の藤野さんたちの「心の理論」に関する論文(藤野博他2019「自閉スペクトラム症の児童における読書の傾向と心の理論との関係」)の冒頭部分の解説を引き合いに出して説明させてください。

 自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder,以下ASD)の人の心の理論の獲得は定型発達(Typical Development,以下TD)の人とは質的に異なっているという知見がある。誤信念課題を解けるASD者は特別な方略を使ってそれを行っていることがその根拠とされている1)。そして,ASD者の方がTD者よりも誤信念課題を解くにあたり言語への依存度が高いことから,ASD児は言語によるバイパスを経由して心の理論にアクセスするという仮説が提唱されている2)。また,誤信念課題を解けるASD児はすべて言語的な理由付けができる一方,TD児はそうではなかったことから,言語的命題の積み重ねによる推論によって誤信念課題を解いている可能性が推察された3)。この可能性は介入実験によって検証されており,ASD児に対しては言語的命題化による介入の効果があり,語彙年齢が10歳レベルに達すると,命題化された一般原理を意識的に活用できることが示唆された。

 

発達心理学の知識がないとちょっと読みにくいかと思いますが、以下の話を理解していただくための予備知識として、まずは心の理論について大まかに説明していましょう。

今までの療育支援に対する考え方は、基本的に定型発達者の発達の道筋を元に「それからどう遅れているのか」「どこが外れるのか」という視点から考えられることが一般的でしたが、だんだんと発達障がい児には発達障がい児独自の発達の道筋があるんじゃないか、ということに注目が集まりだしています。

発達と言っても体の発達、物の理解の発達、社会性の発達など、いろんな側面がありますが、そのひとつとして発達心理学の中では他者を理解することにかかわる「心の理論」の研究が、日本でも1990年前後から注目されるようになり始めました。この心の理論というのはもともとは霊長類学者のプレマックという人たちが1978年の論文「チンパンジーは心の理論を持つか?」で問題にし始めたものです(※)。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、基本的な考え方はこういうものです。

人間は「相手が何を考えているか」ということを理解しながらやり取りをしますよね。「相手の心を読む」わけです。でも、そもそも相手には「心がある」っていうことを人はどうやって知ることができるのでしょうか?だって「心」というものを直接見ることはできないのではないでしょうか?たしかに悲しい顔をしていれば、その人の悲しい心を読めるように思います。でもその悲しい顔自体がその人の心かと聞かれれば、それは違うよね、と思わないでしょうか。それはあくまで「顔」であって、その「顔」に「心」が現れるけれども、それ自体が心なのではない。そんな風に思わないでしょうか。(※※)

さらに、相手が平気そうな顔をしていても、内心では悲しんでいる、と思ったりすることもありますよね。人は「本当の気持ち(心)」を隠して表情を「装う(嘘をつく)」ことができると感じられるわけですから、当然「心」は「顔」の「裏側」にあるなにか、ということになります。

ではそうやって隠されたその人の「心」を理解できるのか、というとそれは何らかの形で「推理」しているんだということが考えられます。ということで、人はほかの人の「直接は見えない心」の「心」がどういうふうなものなのか、ということ推理するための「理論」を身に着けていき、その「理論」の力を借りて、目に直接は見えないように思える人の心を理解し(推定し)、それを元にほかの人とやりとりするんだ、という話になる訳です。

じゃあ子どもが人の心を理解できるかどうかはどうやって調べられるでしょうか。人はいつごろほかの人の心を推理できるようになるのでしょうか。そこで研究者が考えたのは、「相手が自分と違う考え方を持っているということに気づけるかどうか」を調べるという方法でした(※※※)。それを調べるのに使われた有名な課題が、サリーとアン課題とか、スマーティー課題などになります。サリーとアン課題では幼児にこんな物語を見せて質問します。

 ①サリーとアンがいます。②サリーが一つの入れ物に物を入れました。③そのあとサリーはどこかへ行ってしまいました。④サリーがいない間に、アンはそれを別の箱に移してしまいました。

⑤さて戻ってきたサリーはその物をどちらの箱からとろうとするでしょうか?

まず大人はこう考えるでしょう。このストーリーを見た人は、入れ替えた本人のアンと同じように「正解」を知っています。つまり元の入れ物にはもうそれはないことをです。けれどもサリーはアンがいつのまにか物を移動させてしまったことを知りません。だから帰ってきたサリーは自分が入れた方を探すはずです。

ということで、この課題に正解するには「自分(やアン)は事実を知っている」んだけど、「サリーは知らない」から、「サリーは間違った理解のし方(誤信念と言います)に基づいて行動する」はずだ、という推理が出来なければなりません。つまり自分(やアン)とサリーは違う考え方をしている(信念を持っている)、だから行動も違ってくる、というお互いの心の状態(信念)の区別に基づく推理ができなければならないわけです。

自分やアン 正解を知っている ⇒ 移動したほうを探す

サリー   移動したことを知らない ⇒ 元の方を探す

大人にとっては何のことはない課題かもしれませんが、3歳以前にはこれがむつかしくて、間違えやすいんです。つまり「自分の知っていること」に基づいて判断してしまうわけですね。いわば自分の心とは違う人の心を理解する、という「心の理論」ができていないんだという話です。

 

他者理解の発達ということを考えるうえで、この実験はとても面白いのですが、これが自閉症の子どもの特徴を知るうえでとても重要な意味がありそうだということがわかってきて、そのあと盛んに研究されてきたわけです。上の藤野さんたちの研究もそのような研究の流れを前提にしたものの一つになります。

それらの研究で明らかになったことはどういうことかというと、自閉と診断された子どもは、3歳を過ぎてもこの課題ができる子がかなり少ない、といことです。みんなできないということではないですが、かなりできない子が多い。自閉系の方は、大人になってもこういうののもう少し複雑な課題になると苦手だと言われる方もあります。

ということは、「自閉症の心理学的な原因は<心の理論>の形成(発達)が困難なことにある」という理解の仕方がそこに出てくるわけですね。それでこの理論は自閉症理解についても一世を風靡する感じで世界中で影響力を持ってきました。

 

ただ、ごく早い段階(私が若いころ)から、実際に現場で自閉症の子を見ている支援スタッフの方たちは、自閉の子でもこの課題が全然できないとか、いつまでもできないということでもないよね、ということに気づいていました。すべての子とは言えないけれど、年齢が上がっていくと、結構その課題に正解する子どもたちも出てくるわけです。

ですから、「サリーとアン課題に正解できる」=「心の理論を獲得した」という風に考えた場合、自閉症だから心の理論ができないというわけではなく、時間がかかってもそれを獲得するのだということになります。藤野さんの論文で「自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder,以下ASD)の人の心の理論の獲得」と言われているのはそういうことです。

 

ところが、その獲得というのが「定型発達の子の獲得よりスピードが遅い」という単純な話ではないぞ、ということがわかってきた。それが「定型発達(Typical Development,以下TD)の人とは質的に異なっているという知見がある。」という部分ですね。

じゃあ何が違うのかというと、そもそも「どうやってその課題を解けるようになるのか」という道筋が違うことが見えてきたというわけです。言い換えれば定型とは違う発達のルートをたどっているということですね。自宅から駅まで行くのに、「駅に着く」という目標は同じでも、そこに行くまでの道筋は幾通りも考えられる、というようなことと同じです。「誤信念課題を解けるASD者は特別な方略を使ってそれを行っていることがその根拠とされている。」というところはそのことを言っています。「特別な方略」というのが「違う道筋」ということです。

じゃあそれはどういう違いなのか、自閉の子はどういうやり方でその課題を理解できるようになり、正解できるようになるのか。そのことを理解するための仮説が「そして,ASD者の方がTD者よりも誤信念課題を解くにあたり言語への依存度が高いことから,ASD児は言語によるバイパスを経由して心の理論にアクセスするという仮説が提唱されている。」ということです。

簡単に言うと、自閉の子は「言葉を使った理屈で理解するんだ」とう話ですね。ひとつひとつ「これはこうだから、そうだとすればこうなるはずだ」みたいに言葉で論理的に整理して正解にたどり着くんだということです。

もちろん定型でも大きくなればそういう風に言葉で説明することはそれほどむつかしいことではありません。でも自閉の子がこの課題がクリアできるときには言葉でそれを説明できるのにたいして、定型の子がこの課題をクリアできる頃ころには、まだ言葉でそれを説明することがむつかしいというのです。「また,誤信念課題を解けるASD児はすべて言語的な理由付けができる一方,TD児はそうではなかったことから,言語的命題の積み重ねによる推論によって誤信念課題を解いている可能性が推察された。」というのはそういうことです。

定型は言葉では説明がまだむつかしいのですから、言葉以前の直観で、あるいは感覚的に理解しちゃっているんだということになります。逆に言うと自閉の子は直観的な理解や感覚的な理解がむつかしくて、いちいち理屈で考えないとわからなくなってしまうんだということです。ものすごくラフに言えば、定型の子は「理屈で(頭で)わかる前に感覚的にわかっちゃう」けど、自閉の子は「感覚的にはわからない(わかりにくい)ので理屈で(頭で)理解する」ということになります。わかりやすく図式化するとこんな感じでしょう。

 定型の子 直観的に正解し、そののちに言葉でも説明できるようになる

      「直観的理解⇒言葉による説明」

 自閉の子 最初から言葉で説明して正解するようになる

      「言葉による説明⇒理解」

というわけなので、「相手の心を理解できるようにする」には、感覚的・直観的には理解しにくい自閉の子に対しては言葉で理屈で教えることが有効なんだ、ということになります。それが「この可能性は介入実験によって検証されており,ASD児に対しては言語的命題化による介入の効果があり,語彙年齢が10歳レベルに達すると,命題化された一般原理を意識的に活用できることが示唆された。」ということです。

社会的ルールなどの理解に困難がある自閉の子に、SSTなどで「言葉で状況を説明し、正解を教える」という方法がとられることがよくありますが、それがある程度は有効な理由がそういうことだということになります(そのやりかたの限界についてはこちらに書きました)。

 

以上の話を改めてごく簡単にまとめるとこういうことです。

自閉の子は、自分とは異なる相手の心というものを理解するのが苦手なんだよね。だから3歳ごろには定型の子が獲得する「心の理論」もなかなか身につかない。でも全然身につかないわけじゃなくて、大きくなると獲得するようになる子が多い。ところが実際にはその獲得する仕方は定型の子とはちょっと違っていて、定型の子は理屈ではなく感覚的に身に着けて、あとから理屈でも説明できるようになるのに対して、自閉の子は理屈で理解して初めて心の理論の課題(誤信念課題)に成功できるようになるんだ。つまり、一見同じことができるようになるように見えて、その発達の道筋はかなり違うんだよね。

 

ここで二つのポイントに注目してください。ひとつは同じような課題ができるようになるのには、いろんな道筋があるんだということ。発達というのは決して一つのルートや方向に決まっているわけではないわけです。発達障がいの子には定型発達の子とは異なる発達のルートがあると考えられる。もちろん完全に別ではないけど、結構重要なところで違いがあるという点に注意する必要があるわけです。その意味で「定型発達の子の発達の仕方」はそのまま発達障がいの子の発達のモデルにはならない(なることもあるけど、結構大事なところでそうならない場合がある)。(※※※※)

もうひとつは自閉系の子が人の心を理解し、定型社会でのコミュニケーションの仕方を学ぶときに、自分の感覚では理解しにくいものを、無理やり頭で理解していることが多い、ということです。これがアスペルガーの方が定型社会の中でものすごく疲れやすい理由の一つと考えらえます。定型が特に苦労なく直観で理解してしまうことを、いちいち頭でいろいろ推理して考えなければならない。しかもそうやって推理してもそれが正しいのかどうかも自信が持てない。常に緊張していろいろやらなければならないので、へとへとになるのです。

最近の自閉症に関する発達心理学的な研究の中で、そういう点に少しずつ注意が向くようになってきたのが今の段階なのかなと思います。

以上が「当事者が自分の言葉を持ちにくい理由」を理解するうえで、前提として知っておいていただきたいことです。次回そのことを前提に、もう少し具体的な話を進めることにします。

 

 

※ Premack, D. G., Woodruff, G. (1978). Does the chimpanzee have a theory of mind?. Behavioral and Brain Sciences 1 (4): 515–526.

※※ 哲学的に言えば、このような考え方というのは心身二元論(心と体は別の物という前提で考える議論)のひとつになります。近代の西洋哲学はだいたいこの心身二元論に立脚していて、そうすると、「自分に見えるのは相手の体だけなのだから、相手の心を直接知ることなんてありえない」という話になってしまい、「じゃあなんで人は相手に心があると思い込んでいるんだろう?」という疑問に進みます。その結果「人はほんとに相手に心があるかどうかなんてわからないので、ただ単に相手の心というものを推理しているだけなんだ」という話になってきます。そうすると、デカルトみたいに、「確実にあるのは私だけ」みたいな話になってしまって、そこから抜け出せなくなっていくんですね。そこに挑戦した現象学のフッサールも結局そこは超えられずに相手の心は推理(投影)するしかない、ということに終わっているようです。でも、そもそもそういう考え方って、「自分(我)」というものを他から切り離して絶対視してしまうから起こる間違った議論で、そもそも「自分」がどのように表れているのか、ということから整理して考えていけば、そういう落とし穴に落ちなくて済むんだ、という哲学的な議論があります。主客未分ということを問題にする、禅の素養を持つ哲学者の西田幾多郎がそうですし、あるいは廣松渉の共同主観性の哲学がまた違う角度(四肢構造論)から同じ問題を理論的に解いています。そのことを前提に、だんだん「本当の気持ちを隠す」ような複雑な精神の働きが発達していくと、それに対応して「相手の心を推理する」力もあとから必要になるのであって、その逆ではないわけですね。私はこちらの系譜の議論の方に圧倒的な説得力を感じるので、その視点を重視しながら子どもの発達についても考えています。ちなみに有名な心理学者の中ではヴィゴツキーなどは心身二元論の立場はとらない人のひとりです。「心の理論」は心身二元論的な視点を色濃く持っていると思えるのですが、その姿勢が持つ理論的限界の問題は取りあえず置いて、ここではその心身二元論的な考え方に添って説明を進めておきます。

※※※ Baron-Cohen S, Leslie AM, Frith U (1985). Does the autistic child have a ‘theory of mind’?”, Cognition, 21(1), 37–46.

※※※※ ちなみに、発達というものが、たとえばピアジェが知能の発達について想定したように、ただ一つのルートで成立していくのではなく、多様なルートがあるんだ、ということについては、ここで扱っている定型と発達障がいの発達の仕方の違いには限られません。文化によってもそれは大きく異なります。そもそも「心はそれ自体が文化なんだ(だから文化によって心の成り立ちも変わる)」ということを重視して研究を進めてきたのは、ヴィゴツキーの流れをくむ「文化心理学」とか「社会文化心理学」などと呼ばれる理論の系譜ですが(私も一章を担当したハンドブックにはこういうものとかこういうものなどもあります)、これまで何度かご紹介したように私たちもその議論を発展させる形で、「子どものお小遣い」という現象を使って、日本・中国・韓国・ベトナムの子どもたちがいかに違った方向に、違ったルートで発達をしていくかを明らかにしています(高橋・山本2016Takahashi & Yamamoto2020)。

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