2020.08.16
当事者が自分の言葉を持ちにくい理由(2)感覚と言葉のずれ
当事者が自分の言葉を持ちにくい理由(1)では、「心の理論」関連の研究を例にしながら二つの事を説明しました。
一つは発達のルートは一つではなく、同じことができるようになるためにも、いろんな出来方があるんだということ。二つは他者の心を理解することに関係する「心の理論」の発達については、定型発達者がまずは感覚的に理解し、のちに言葉でも論理的に説明ができるようになるのに対して、自閉症の子は感覚的に理解するのがむつかしく、論理的に理解するようになって解けるようになるという違いがあるらしいということでした。
一番目の事から言えることは、発達障がいの子どもの発達を支援するときに、「定型の理屈」で支援してしまうと、その子の特性に合った発達を支援するのがむつかしくなることがある、ということです。実際現場の支援スタッフの皆さんと事例検討をしていると、保護者の方が子どもに対してそのあたりで子どもとズレた要求を押し付けてしまうこともよく見られますし、支援スタッフ自身もそこで失敗しているように見えることもあります。
今回書きたいことは、特に二番目の事についてです。
以前に関連する話を、当事者研究の綾屋紗月さんに教えていただいたことについてご紹介する中で考えたことがあります(当事者研究のはなし 1 当事者研究のはなし 2)。それは当事者の方たちが「自分にしっくりくる言葉で自分の事を説明するのがむつかしいことが多い」ということです。特にアスペルガー傾向の当事者の方の場合それが言えると思います。
私自身の経験から言っても、アスペルガーの方と何かの議論になったとき、相手の方の言う言葉の意味が感覚的によくわからないことがあります。特に相手の方の主張について「どうして?」とその理由を尋ねたときに、それに対して相手から語られる「理由」が良くわからないということがしばしばあります。私の感覚からすると「理屈が通っていない」ように、あるいは「取ってつけたような理由」のように感じてしまうようなケースです。そうなってしまうと、わけがわからなくなって、かみ合った議論ができなくなります。
なぜそういうことが起こるのでしょうか。その理由が二番目の問題につながっていくことになります。
そのことを説明をするためにまず理解しておいていただきたいことがあります。「ことばの意味はどういうふうに成り立っているんだろう」という話です。
このことについて、ごく素朴な理解はこうなっていないでしょうか。たとえば「カエル」という言葉は図にあるような「蛙」がまずこの世の中にいて、それに後からつけられた名前だと思いますよね。
では自分の気持ちを表す言葉についてはどうでしょう?たとえば「かちゃくちゃね」。津軽弁ですが、ご存じない方はよくわかりませんよね。ネットで見ても、「わけわかんない」とか「イライラする」「こんがらがってる」「ちらばっている」など、いろんな「訳語」が当てられています。私は子どものころに祖母から聞いた「まんず、かちゃくちゃねっきゃ」という言い方が、その語感と共に今も思い浮かぶのですが、どの「訳語」も完全にぴったりという感じがありません。
やはり津軽弁で「あずましい」という言葉があり、共通語に翻訳すれば「気持ちいい」くらいの感じになるのですが、これもぴったりとは言えず、私の祖母は「津軽のことばはほんとにぴったりだ。あずましい、といえばほんとにあずましいきもちにぴったりくる(意訳)」ということを言っていました。これを「気持ちいい」と言ってしまうと、なんか違うというわけですね。
韓国語に「ハン( 한)」という単語があるのですが、これは韓国の人々の思いや人間関係、世の中への気持ちを考えるうえで決して欠かすことのできない大事な言葉です。
漢字で書くと「恨」となり、それを日本語に置き換えて解釈すると「うらみ」になりそうですね。でも多少重なる部分はあっても、その大事な意味は全然違います。日本語で「うらみ」と言えば、「うらみ晴らさでおかりょうか~」と幽霊が言うような、「復讐への秘めた深い思い」を表しますけれど、韓国語の「ハン」は憎しみと慈しみの気持ちをないまぜにしながら「人と人をつなぐ大事な思い」であり「社会を成り立たせる情念」のようなんです。
韓国のいろんな人にこの言葉のニュアンスを聞いたんですが、なかなかピンと来なくて、韓国の人同士でも「ハンとは何か」について熱い議論が繰り返されたりもします。
私がなかなかピンとこなかったのは、自分の中にそういう感覚が見当たらなかったからですね。けれども韓国のドラマや映画を色々見たり、韓国の方にいろいろ話を聞いたりしてその世界に少し浸っているうちに、ほんとにちょっとずつですが、「日本にはほとんどないその感覚」がもやっと自分の中にも形作られるような気分が作られていきます。そしてそのうちに、韓国映画を見ても「これはハンにかかわる話だな」とか、なんとなく分かる感じが出てきたりするんです。
つまり、私の中での「ハン」ということばは、まず私の中に「ハン」という心があって、それに名前を付けたのではありません。それが韓国のいろいろな人間関係、ドラマなどを経験する中で、なんとなく「ハン」に当てはまりそうな心が作られていった、というのが実際です。図にするとこんな感じでしょうか。
最初言葉として聞いても「?」だったものが、経験を経てもやっとそれに該当するような心の状態が感じられるようになり、そこに「ハン」という名前がくっついていく、といったイメージです。
「蛙」のような「物」については定型発達者と発達障がい者で通常それほどその意味には大きなずれは生まれにくく、コミュニケーションに困難が生じることはありません(※)。ところが心の状態、気持ちについては私が「ハン」という言葉の意味を「経験を通してもやっと理解してきた」ように、人はほかの人とのやりとりの中で少しずつそれに見合った心の状態を自分でも体験し、「こんなことなのかな」と想像しながらその言葉の意味を理解していくわけですね。
しつこく強調しますが、この時「ハン」という心の状態は最初私にはなかったのです。「恨み」はわかりましたが、それとは違う心の状態です。そのあと、「ハン」という言葉を聞くことがきっかけになって、その心の状態(に少し似たもの)が「後から」作られたのです。
言い換えると「意味(その言葉が示すもの)」が先にあって、言葉でそれを名付けるのではなく、言葉が先にあって、あとからその「意味」が作り出されていくのだ、とも言えます。言葉と共に意味が作られていく、と言ってもいいでしょう。
さて、津軽の生活の中では「かちゃくちゃねえ」という言葉が津軽の人たちの生活の中で生み出されたある心理状態をよく表すものだとしても、そういう心理状態は江戸っ子にはぴったりのものがなく、江戸っ子にはすぐには理解しにくいでしょう。生活のスタイルや生き方の価値観などが相当違うから、それに対応するような心理状態の差がそこにあるからです。「ハン」という言葉も日本的な人間関係や価値観とともに生まれる心理状態の中にはぴったりくるものがないので、日本人にはなかなか理解がむつかしい。「文化」という言葉を使えば、「かちゃくちゃねえ」も「ハン」もそれぞれの地域社会の「文化」の中で生み出された心理状態を表す言葉なので、異なる文化の中で育った人にはすっとは理解できないわけです。
だいぶ予備的な説明が長くなりました。ここまで準備すれば、発達障がい者が自分の言葉を持ちにくい理由の二番目が説明できることになります。
つまり、発達障がい者はその心理的な特性(脳の機能の違いと説明されることが多い)が定型発達者の特性とは一致しない部分があるため、外から見れば同じようなものを見たり、同じような行動をしているように見えても、その人の心の状態(体験の仕方)は同じにならないことがしばしば起こりうるわけです。
さて、そうすると、たとえば図のように同じ「象」を見ていたとしても、お互いに体験している中身は異なる、ということが起こります。それを「ゾウ」という同じ言葉でお互いにあらわしたとしても、そこで表された意味(=体験の中身)は異なっている、ということが起こることになります。その意味のずれがコミュニケーションの困難を生み出します。
これで私がアスペルガーの方の話を聞いていて、なにかピンとこない経験をすることが多い、ということの理由が少し説明されたことになると思います。ではそのことが「当事者が自分の言葉を持ちにくい」ということとどういう関係があるのでしょうか。単に特性によって感覚が違うだけなら、発達障がいの方もその感覚をそのままうまく言葉にすればいいだけだ、という風にも考えられそうですが、実際にはそうはならずに「自分の言葉を持てず」に苦労することが多いわけです。次回はその理由について考えてみましょう。
※ もう少し突っ込んで考えていくと、実際は「物」についても言葉のない段階でそれを理解する場合と、言葉で名付けて理解する場合では、その内容に変化が起こりますので、「心」の理解とその意味では共通していると考えた方がいいのですが、大ざっぱな特徴としてはここで説明したような言い方でもそんなに間違いにはならないと思えるので、ここではわかりやすく両者を分けて考えておきます。
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
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