2020.08.17
当事者が自分の言葉を持ちにくい理由(3)言葉は借り物ということ
「当事者が自分の言葉を持ちにくい理由」の三回目です。
ここまでの簡単なおさらいから始めましょう。
1回目では「心の理論」の発達の仕方を例に、定型発達者と発達障がい者(この場合自閉系の子)では、同じように「誤信念課題(サリーとアン課題など)」が解けるようになったとしても、どうやって解けるかどうかのルートが違うようだ、という話をしました。そしてその違いは、定型の子はまずは言葉で説明できる前に感覚的・直観的に解けるようになり、自閉系の子は言葉で説明できるようになってそれが解ける(感覚的・直観的にはむつかしい)ということでした。こういう時、自閉系の子は感覚的に体でではなく、言葉で理屈立てて理解するのだ、という言い方もできそうです。
2回目では、自閉系の子もそうやって「言葉で理解する」形で定型と似たような課題解決ができるようになるのだけれど、会話の中でどうも相手の言うことの意味をお互いに理解しにくいことがある、という話を取り上げ、それは「同じような言葉を使っていても、それが意味するものが違うから」という形で説明してみました。そしてそのような意味のずれが起こるのは、同じものを見たり同じ行動をしたりしても、そこで体験するものが定型の特性と発達障がいの特性のずれの結果、微妙に違うものになってしまっているからだろう、という話をしました。
以上のことを踏まえて、ここではそういうズレが生まれる中で、どうして「発達障がい当事者が自分の言葉を持ちにくいのか」を説明してみたいと思います。単にお互いに体験の仕方にずれがあるだけなら、発達障がい当事者も自分独自の言葉を持てるはずで、「自分の言葉を持ちにくい」という理由がないからです。
さて、この理由を考えるときに参考になる話があります。私たちは言葉をどのように獲得し、どのように使うのか、ということについての、バフチン(Михаил Михайлович Бахти, 1895 – 1975)という人の考え方で、私は専門ではありませんが、私が理解した範囲でヒントとなりそうなその考え方の一部をできるだけシンプルに説明してみます。バフチンは言語哲学、記号論、文芸論などを中心に多方面で活躍した理論家で、単なる文法などの形式的な言葉の研究ではなく、私たちの現実の生活の中で言葉がどのように働いているか、その実際の形を理論的に説明しようとしています。
まず、言葉はそれを話す人が発明したものではない、という単純な事実が出発点です。日本で赤ちゃんが生まれたとき、そこにはすでに日本語の世界があって、お父さんもお母さんも、みんな日本語で話し合っていますし、また赤ちゃんにも話しかけています(最近は外国籍の方が多くなっているので、家庭で身に着ける母語はポルトガル語など日本語以外の場合もおおくありますが)。
最初は赤ちゃんも「ばばばばば」とか「ままままま」など、ことばとしての意味を持たずに音を楽しんでいるようないわゆる「喃語」を話していきますが、まもなく周りの大人の話している話し方に合わせて音を調節し、意味に結びついたことばを話すようになります。そしてその音がどんな意味を表すのか、ということもすでに日本語を話せる周りの人たちとのやりとりの中で学んでいきます。
これもあたりまえのことですが、その時は相手に通じるように話さなければならないので、自分で勝手に新しい言葉を作ることはできず、すでに話されている言葉を使っていくわけですね。ですから、言葉は常に「人からの借り物」だということになります。そうやって借り物の言葉を使って、自分が伝えたい内容を相手に伝えるわけです。
ところで、みなさんは自分の気持ちをうまく言葉で表せないということはないでしょうか。「今の自分の気持ちを言ってごらん」と言われていろいろ説明をしようとしても、どういってもぴったり表せない気持ちになる。「ことばにすれば嘘に染まる」という流行歌の歌詞が昔ありましたが、言葉はもともと人からの借りものなので、自分の気持ちにぴったりとは来ないことがあっても不思議はないのですが、それでもその自分の気持ちを伝えようとすれば、その借りものの言葉でなんとか工夫して表現するしかありません。詩人などはそこで苦労するわけですね。
では、赤ちゃんが生まれる前から周囲の人たちが共有していた日本語とは何かというと、もちろんそれもそれを話す周囲の人たちが生み出したものではなく、その人たちがさらに前の世代の言葉を借りて使っているものです。その言葉はお互いのコミュニケーションを成り立たせるために、大雑把には意味が通じ合うように調整されてその社会の中で共有されています。仮に時代の変化とともに、その言葉だけではうまく表せない感覚などが生じると、それに合わせて新しい言葉が少しずつ作られ、日本語をちょっとずつ変えていったりもします。また集団ごとにも少しずつその集団に特徴のある言葉が生み出されていきます。方言もそうですし、ギャル語とかもそうですね。その言葉を話すことで、その集団に属していることが示されますし、お互いのきずなも強まります。
そうやって少しずつ変化しつつ調整されますが、その集団のコミュニケーションをうまく成り立たせるために言葉はその集団に合った形である程度安定した形で共有されています。(バフチンの言葉でいえば「ジャンル」といった概念がそれに該当します)
ここで確認しておきたいポイントは次のようなことです。そもそも私たちは自分の気持ちにぴったりの言葉をあたえられているのではなく、みんなが使っている言葉をまずは身につけさせられ、それによって人とやりとりできるようになります。ですから、そのやりとりがむつかしくなるような言葉の使い方は否定されていくのですね。
ここまでは言葉を話す誰にでも共通する部分です。この話を発達障がいと定型に当てはめてさらに一歩進めて考えてみましょう。
定型は社会の中では多数派になるので、その社会は定型に便利なコミュニケーションのパターンを作り、それに見合った言葉を共有しています。「定型語」とでもいうべき言葉のジャンルを持って使っているわけですね。その言葉は完全には自分にピッタリとこないところがあっても、大体はうまく自分の気持ちを表しやすいものになっています。
ところが発達障がいの子の特性はその子が生きている環境の中ではかなり少数派になります。ですから、ひとりひとりが孤立しやすく、自分たちの言葉を自分たちで共有し、たとえば自閉的な子であればいわば「自閉語」といった言葉のジャンルを作ることがむつかしいわけです。
そうすると、言葉は多かれ少なかれ「借り物」であるということはどちらも同じですが、その「借り物」がどれだけ自分の気持ちを表しやすくなるかというと、定型の子の方が圧倒的に有利だということになります。ですから、気持ちと言葉のずれはそれほど深刻にならないことが多くなる。
それに対してたとえば自閉の子は、その「借り物」の言葉がなかなか自分の感覚にぴったり来ない。感覚的にはピンとこないんだけど、周りとコミュニケーションをとるには、それを使うしかない、という立場に追いやられます。そこで仮に自分の感覚に合った言葉を作ったり使おうとしても、周りがそれを許しませんし、なかなかそれを共有してくれはません。
その結果、発達障がい当事者は自分の言葉を持ちにくい、ということが生じるわけです。
だいたい理屈の筋はわかっていただけたかと思いますが、こんなたとえ話でも理解していただけるかもしれません。外国語で何かを表現するというのは大変です。一生懸命文法に気を付け、辞書的な意味を確認しながら話したり書いたりしたとしても、言葉のニュアンスがなかなかわかりません。だから、自分の表現がはたして言いたいことをうまく伝えられているのかについてはとても不安な状態になります。微妙な表現であればあるほどそうです。
それは外国語が自分の母語のように、自分の感覚にも比較的フィットする形で使いこなしたものになっておらず、言ってみれば頭で理屈で覚えたようなものになるからです。そこに自分の自然な感情を込めることがむつかしい。でもその言葉でその言葉を母語とする人とやりとりするには、そういう「借り物」の感覚が強い言葉を使うしかないわけです。
発達障がいの方たちも、同じような状態に置かれてコミュニケーションにむつかしさを感じている人が少なくないと思われます。たとえば感覚過敏といわれるものについて、かりに言葉でそのつらさを表現したとしても、感覚過敏のない人には実感として理解できません。同じ言葉を使って何かを表現しようとしても、定型は定型的な感覚をベースにその意味を理解するので、当事者は自分の特性から生まれる感覚の世界をなかなかうまく伝えられないのですね。そうすると、発達障がいの方にとって、その言葉は自分を表しにくい「借り物」の言葉という性質がとても強く出てくることになります。
当事者の視点を理解しながらのこれからの療育支援を考えるときに、この問題をしっかり押さえながら試行錯誤していくことが不可欠だと思います。ポイントは以下のようになるでしょう。
・発達障がい者が「自分の言葉」を獲得しにくい状況とは何か
・「自分の言葉」を獲得するための支援とは何か
・「自分の言葉」を「他者の言葉」とつなぐための支援とは何か
また改めてご紹介できればと思いますが、この「自分の言葉を獲得しにくい状況」については、綾屋さんが「つながりの作法」の中で、ご自身の体験を書いてくださっていて、とても参考になります。
また二つ目と三つ目を考えるときの理論的なポイントについては、私の共同研究者のひとりでもある田島充士さんもおととしこんな講演録を出されていて参考になります。田島さんはバフチンにほれ込んで、それをちゃんと理解するためにギリシャ哲学やギリシャ文学から読み直したりしている本格派ですが、その講演録はPDFでごらんいただけます。
田島充士2018 教育実践を理解するためのバフチン・ダイアローグ論
何が大事なポイントとなるかというと、お互いに違う感覚や考え方、違う言葉を持ったもの同士でどういう教育が成り立つのかを「対話(ダイアローグ)」というバフチンの概念をヒントに考えることです。田島さんの言葉ではこんな言い方もあります。「バフチンのいう「ダイアローグ」は,慣れ親しんだ仲間同士の会話というよりもむしろ,異質な文化的背景を持つ他者同士のコミュニケーションを志向する概念である。」
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
- 大事なのは「そうなる過程」
- 今年もよろしくお願いします
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