はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.08.17

当事者が自分の言葉を持ちにくい理由(4)論理的な言葉は自分の言葉に?

当事者がなぜ自分の言葉でうまく自分を表現しにくいのか、についていくつかの観点からその理由を考えてきましたが、「心の理論」の獲得課程について説明したこと、つまり「自閉症の子は感覚的に理解するのがむつかしく、論理的に理解するようになって解けるようになるという違いがあるらしい」という点について、少し説明が足りないままになりました。

アスペルガーの方と話をするときに、情緒的な説明の仕方が嫌われることが良くあります。自閉症児への療育支援の時にも言葉にしてわかりやすく明確にルールを示すことが重要だったりもします。なんとなく雰囲気であいまいに話すのはよくないのですね。定型的には「そんなこと言わなくったってわかるでしょう」と思えるところ、そうなりにくいところがあります。逆に数学とか自然科学、プログラミングなど、論理的に考えられる世界はすごく得意だったりします。

「当事者が自分の言葉を持ちにくい理由」の(1)から(3)まででは、発達障がいの子、特に自閉的な子では自分の素直な感じ方と、周囲の定型発達者の感じ方にずれが起こってしまうので、その定型発達者の感じ方にフィットしやすい「定型語」がなかなか習得がむつかしく、逆に言えば自分自身の感覚にフィットした「自閉語」を共有することがむつかしいこと、つまりは「当事者が自分の言葉を持ちにくい」ことの理由をそんな風に説明してみました。

他方で、相手の心の状態(信念)を推理するようなときには、いちいち言葉で論理的に理解するというやりかたをするし、そういう理解の仕方が得意だ、という話があるわけです。そうするとこの「論理的に理解するための言葉」は自閉系の子にとって大きな武器になることになります。その意味で「自分の言葉」になっているとも言えます。

一方では「自分の言葉を持ちにくい」ということがあり、他方では「論理的な言葉が自分の言葉として活用できる」ということがあり、ちょっと矛盾するようにも思えるそのあたり、少し整理して考えておいた方がいいだろうと思って「4」を書くことにしました。

 

その話をするために、まずは言葉を大雑把に二つに分けてみたいと思います。ひとつは人の気持ちを理解する言葉で、もうひとつはものごとの仕組みを理解する言葉です。人の気持ちを理解するのは、「共感」とか「了解」など、「相手の気持ちを追体験する」ような心の働きがベースになります。物事の仕組みを理解する言葉は「因果関係」とか「構造」など、「理屈で整理する」ような言葉の働きがベースになります。

たとえばある人が動悸を感じたとして、それを「長く探し求めていたものが突然に目の前に現れたから」と理解すれば「人の気持ちを理解する言葉」を使ったことになります。それに対して「アドレナリンの分泌量が増加したため心拍数が亢進した」とでも理解すれば、それは「物事の仕組みを理解する言葉」を使ったことになります。主観的な理解と客観的な理解、といった言い方で説明されることも多くあります。

さて、ここでその「長く探し求めていたもの」が昔の誰かが書いた手紙、たとえば明智光秀が本能寺の変の直前に自分の思いを盟友に書き送ったものだったとします。素人目にはたんに古ぼけた、ミミズがのたうち回った後のような、誰が書いたかもよくわからないよく読めない文字で書かれたもので、そんなものにどんな価値があるのかもわかりませんし、それで興奮することはないでしょう。ところが中世史の研究者、特にこのあたりの時代の専門家がそれを見たら、それこそ心臓バクバクになるはずです。

前にもご紹介したかと思いますが、以前、漢字の研究をされている方が、四川省に旅行に行ったと言って、その時の写真を興奮しながら見せてくれたことがあります。「これだよ!これ!」といった感じで。でも見てみると、なんのことはない、単に畑が映っているだけで、このおじさん何を興奮しているのか全然わかりませんでした。「あんた、興奮しないの?これ、あの三星堆遺跡の発掘場所なんだよ!」という感じで怒られたりするのですが、やっぱり「あ、そう」という程度で全然興奮しませんでした。下のような写真です。

それからいろいろ中国の歴史とかも多少は学んで、三星堆遺跡が中国史上どれほどの大発見だったのかを少しは理解するようになりましたので、今見ればもう少し「あ、そうなんですか!へえ!」くらいの反応は出来たかもしれませんが、当時はまったくです。

つまり、同じような場面を見ても、それをどう感じるかは人によってものすごく違いがあります。同じものを見ても体験する内容は大きく異なる。それまでの経験や知識の違いでもその差は生じます。ゴキブリをほとんど見ることがない北海道の若い女性が、ゴキブリを見て「かわいい!」といったというエピソードを聞いたことがありますが、たぶんそういう経験の差によるものですね。

ですから、「三星堆遺跡跡の畑の写真を見て動悸が起こった」とか「ゴキブリを見て動悸が起こった」といっても、人によってそのことで体験する感覚が違うので、相手と理解が共有されないわけです。けれどもたとえば「ゴキブリとは、体長は最小種で10mmほど、最大種で100mmに達するが、家住性の種はどれも10 – 40mm程度である。頭部は胸部の下に隠れる。口には大きなアゴがあり、食物をかじって食べる。複眼の機能はあまり良くないが、長い触角と尾部の尾毛(びもう)がよく発達し、暗い環境下でも周囲の食物や天敵の存在を敏感に察知する。脚がよく発達し、前進で走るのが速いが、後退が出来ない。」(wikiより)とか説明されれば、これはほぼ誰とでも共有できる理解になります。物差しで測ればだれが測ってもだいたい同じ値になりますし、そこにはそれを理解するための体験の違いがほとんど生まれないからです(※)。誰でもゴキブリの大きさや習性については調べてみれば同じような体験が可能で、いわゆる客観的な理解が共有できることになります。

こんなふうに「相手の言うことを理解する」上で、そのことについての体験を共有しやすい場合としにくい場合があります。前者は「主観的な理解」と呼ばれることが多く、後者は「客観的な理解」と呼ばれることが多くなります。定型発達者の特性と自閉症者の特性では、特に「人の心の動き方」という主観的なものについて、それぞれの特性に応じて感じ方が異なることが多いため、その体験が共有しにくい場合が多くなるわけです(※※)。逆に「ものごとの仕組みや因果関係」など、客観的なものについては体験が共有しやすいわけです。

上の図で説明すれば、「共通の感覚の世界」を描く言葉として「ものごとの仕組みや因果関係」を表す言葉があって、それは定型発達者と自閉症者で共有されるので、普段定型発達者との間に通じ合わなさを感じている自閉系の方は、そこが大事になり、一生懸命人とそこで共有する世界を作ろうと頑張られるのでしょう。

 

ということで、まとめます。「当事者が自分の言葉を持ちにくい理由」は、自分と感じ方が違う定型社会に合わせた言葉を無理やり使わざるを得ない状況に置かれていて、自分の感覚に合った言葉を探すことがむつかしい環境に育つためであると考えられます。他方で、その中でも定型発達者とでも共有しやすい体験の言葉、つまり「因果関係やものごとのしくみ」を客観的に理解する言葉については、自分の感覚からも素直に理解できるものとして、それによって理解が進みやすいということですね。

ですから、「心の理論」の「誤信念課題(サリーとアンの課題など)」でも、直観的、感覚的な理解の仕方ではなかなかうまくいかず、けれども理屈で整理して考えると正解にたどり着ける、ということが起こっている可能性があるわけです。

 

 

※ 自然科学が「客観的な見方」を作り上げる基本的な方法は、調べたいものと基準になる別の物を比較する、というものです。たとえば長さは物差しという物を基準に、それとの比率で測ります。重さも重りという基準を設けてそれとの比較で決めます。物理学や化学では物と物をぶつけてみたり(最新の粒子加速器もやってるのは結局それだけの事です)、物理的な環境条件を変えて変化を見たり、ということを実験としてやるわけですが、その結果を測定するときも同じことになります。基本的には物と物との関係を調べます。

心理学が自然科学をモデルに実験心理学を展開した時、「心」という目に見えないものをどうやって「測る」のかについてさまざまな工夫を重ねてきました。一つの方法は「心理的な印象」を「物理的な量」に置き換えて答えてもらう、といったやりかたがありますし、さらに「みんなは平均してどのくらいの感じ方か」ということを質問紙その他で調べ、その平均(と分散)を基準にして、その平均からどの程度離れているのかで測ろうとする方法も作られていきました。心理的な感覚を、みんなが同じように調べられる別の量(理想的には物理量)に置き換えて調べる、というのが心理学が「心」という主観的な現象を「客観的」に調べるときに使う基本テクニックです。

ところで「私の見え方、感じ方」は人によって異なる「主観的」なもので、その主観的な部分の理解も人の理解には欠かせないわけです。「客観的な理解」は「お前が主観的にどう思おうと、客観的にはこうなのだ」と、相手を外側から決めつけるような理解の仕方になりがちですが、人はそうやって「客観的」に決めつけられてもなかなか納得できるものでもありませんし、それで自分の気持ちがいい方向に変化するとも限りません。カウンセリングもそうですが、人が「悩み」を解決するとき、自分の主観的な思いを言葉で整理する「内側からの理解」が欠かせません。「当事者の視点を大事にする」というのは、そういうことを大事にすることでもあります。

 

※※ 自閉系の人は共感能力が低い、といった話が時々ありますが、それはこう考えると偏見に過ぎないとも言えます。共感のもとになる感覚、体験の仕方に特性に応じたずれがあるため、相手のズレた体験には共感ができにくいわけです。本州の人間が、ゴキブリを「かわいい!」と言う北海道の女の子に共感しにくいのとある意味同じです。逆に言えば、定型こそ、自閉系の方たちの気持ちの動き方に対して共感能力が非常に低いわけですね。その意味ではお互い様です。

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