はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.08.18

子どもが「悪いこと」をしたとき:誰の責任?

大人の目から見て、「やってはいけないこと」を子どもがしたとき、どうするでしょうか。たとえばおしっこを漏らしてしまったとき。

大きく言えば二つの方向がありそうです。ひとつは「だめでしょう!」としかる。という方向です。叱る方の立場からすれば、一番素朴に言えば「腹が立って叱る」わけですが、もうすこしその意味とか効果を考えてみると、それはこんなことになりそうです。

「悪いこと」をしたんだから、「罰をあたえる」ことで、本人に「自覚」を持ってもらってそれ以降の行動を変えさせようとする

もう一つの方向は「まだこの子には無理なんだから許してあげよう」と大目に見て、周囲がそれを補う工夫をする。という方向です。もらしたことを知ったとき、最初は「またやった!」と怒りの気持ちも起こるかもしれませんが、続いて「いやいや、この子はまだ無理なんだから」という形で自分の怒りを納めて、「しかたないから大人が面倒をみてあげよう」と考える。慣れてくれば別に怒りも起こらず、当然のことのようにたんたんとそうするかもしれません。

「良くないこと」なんだけど、本人には「無理」だから、周りが「責任」を持って補助する

といった感じでしょうか。

これは人間同士の関係に限られず、たとえば私の家にネコが二匹いるんですが、老齢化にも伴って、餌を食べた後吐いてしまうことが時々あります。板の間などに吐く場合は、まあ掃除もしやすいですが、じゅうたんや畳の上で吐くこともあります。そうすると掃除もより大変ですし、間に合うときは顔の下に何かを敷いてその上に吐かせたり、板の間に運んだりしますが、間に合わなかったり、そもそも知らないうちに吐いていることが多いので、そのときは洗浄剤みたいなのを使って処理しても、やっぱり跡も残ります。動物嫌いの方ならちょっとたまらなくなるかもしれません。

でも、ネコに「自覚」を持たせられればそうするでしょうが、それは無理ですし、トイレとは違って吐く場所を学ばせる、というのもかなり難しそうです。もともとネコが野生だったころには、別に吐く場所を選ぶなんて言うこともなかったでしょうしね。「もともと無理なんだから」とあきらめて、飼い主の責任でこちらで対処します。

「障がい」という問題への向き合い方も、この二つの方向の間を行ったり来たりしているんだろうなと思います(※)。人によっても子どもの自覚を求める、言い換えれば子どもに責任を持たせる方向で対応しやすい人と、補助の方向に向かいやすい人がいるように思います。

多分どちらか一方だけでは無理が来るので、結局はその両方の間を揺れ動きながら、いいバランスを探していくということになるのかなと思うのですが、理屈から言えば「ある程度自覚が可能な状態であれば本人の自覚を促す方向に」、「自覚がむつかしいと判断される状態であれば周囲が補助をする方向に」という判断になるのでしょう。「本人と周囲と、お互いにできる範囲で問題に対処していきましょう」という、言ってみればシンプルな話ですね。

さて、このとき「自覚」がある程度可能な場合、どうやってそれを生み出していくのか、について当事者研究では「本人の責任で」というのでもなく、「周りから押し付ける」のでもなく、本人と周囲が協力してそれを作っていく、という実践の形を意識的に模索しているようで、興味を持っています。いわば第三の方法かもしれません。

たとえば当事者研究で頑張っている、脳性麻痺の熊谷晋一郎さんが「当事者研究の研究」という本に載っている対談の中で、失禁という問題について少し話をされています。熊谷さんのような障がいでは、失禁にどう対処するかが切実な問題になる訳です。熊谷さんは言います。

かつての私は「漏らしちゃいけない」っていう規範が強かったんです。失禁問題は自分一人で責任をもって解決すべきものであって、公にするべきものじゃないと考えていた。でもそういう態度でいると、腸との対話(引用者:自分のお腹の調子にいつも注意を向けること)が密室化していき、ますますアンコントローラブル(引用者:制御不能)になるといった悪循環があったんですね。でも自立生活運動と出会ってから、考えが変わりました。……そこで私は「失禁を社会化しないといけない」という考えに触れたんですね。漏らすという行為を免責してもらうということです。だけど、一方ではどこかで失禁を引責する必要もある。とも言われる。失禁の社会化というのは、お漏らしを私秘的に処理せずに(引用者:こっそりプライベートに処理せずに)公にしつつ、親族以外の他者の手助けによってリカバリーするという通過儀礼(引用者:人生の新しいステージに進むときに経験すべきこと)ですが、それが成功裏に終えられると、失禁をするということが免責される安心感を得る一方で、公共空間での失禁とそのリカバリーの作法とでもいうべきものを引責しなきゃいけないということになる。……それによって、失禁という事象がすごく扱いやすくなったという経験をしました。実際、それによって失禁の頻度も減るのですね。(p.163-164)

 

トイレをしているところなんか、人には見られたくない「恥ずかしいこと」と一般的には思いますし(※※)、しかも最近よくCMを見る尿漏れパッドなどで隠せる範囲ならまだしも、トイレにできずに本格的に「失禁する」となれば今度は「恥」の感覚も起こるでしょう。それを隠さず「社会化」するというんだからすごい話です。

なんにしてもここでポイントはそれまで自分自身や親族にこっそり処理してもらった失禁を、もっといろんな人に打ち明けて処理してもらうという方向に切り替えるわけですね。そうすると、自分ではコントロールしきれない失禁について、周りの人たちから非難されるのではなく、一種「当然のこと」として対処してもらえることになる。そのことで失禁しないことは個人の責任(自己責任)という枠を超えて「免責される安心感」が生まれます。

ところがそうやってみんなにお願いしてその協力で(公共空間で)失禁の始末をする、という新しい生き方を作っていく時には、そうやって一緒に協力してくれる人たちとの間に、「よりよい失禁への協力関係」みたいなものを生み出すための「作法」が必要になる訳です。熊谷さんは「エレガントな失禁」などと笑いながら話しています(p.164)。そこで新しい責任が当事者にも生まれるし、周囲の協力者にも生まれる。

身体障がいの結果として生じる「悪いこと」について、「みんなの問題」として対処することで、単に障がい者個人の自己責任の問題でもなく、障がい者に配慮する周囲の責任の問題だけでもない、お互いの立場でのそれぞれの責任の問題に変わっていくことになります。

当事者研究の中では、障がい者が個人として抱えていた葛藤、困難を、周りの同じような体験を共有する人たちと一緒に語り合うということをやります。語り合うことでお互いにそれまで自分だけの苦労と思っていたことが「みんなが抱えている苦労」に感じられることで救われるということが起こるのですが、当事者研究の場合はその先を目指しているようです。

それはその苦労ってなんだろう、ということをみんなで「研究」していこうという方向に進むんですね。どういうときにそうなるんだろうか。そんなときどんな感情が起こるんだろうか。自分の体はそのときどんな状態になっているだろうか(心臓バクバク?頭カッカ?みぞおちが痛い?体ががっくり?……)。その前には何があり、そのあとにはどうなるんだろうか。などなど、その困難はだれの責任かとか、誰が悪いのかといった話は抜きで、その仕組みを当事者みんなで言葉にしてみる(研究する)わけです。

そうやって問題を「みんなで考える課題」にすることで、単に個人の責任の問題でも周囲の責任の問題でもなく、「じゃあみんなでどうしていくか」というみんなの問題としてそれぞれが責任を負うことになる訳ですね。

この話、発達支援についてもそのまま応用できそうです。その子が特性によってうまくできなかったり「悪いこと」をしたりしたとき、「その子ひとりを責める」のでもなく、「配慮が足りない」として「周囲だけを責める」のではなく、「その子と一緒に問題を考える」ことでそれぞれに課題解決への責任を持っていく。子どもと支援者が一緒に「課題を研究する」。そしてそのような形で一緒に課題を克服していくことにお互いに責任を持つ。そんな形がありそうです。ちょっと面白そう。

 

 

 

 

※ もう少し言えば、障がいに限らず、人がかかわる問題はすべてそういう二つの方向での議論が対立しますね。たとえば「自己責任」という考え方は前者になります。「社会的保障」は後者にウェイトがあります。社会心理学でも昔そういう研究があったのを見ましたが、「ある人々が貧乏なのはなぜ?」とその理由を推理させると、「本人の努力が足りないから」と考える人と、「おかれた環境が厳しいから」とか「差別されているから」など、「周囲の問題」と考える人がいます。そしてどちらに原因を求めるかというと、お金持ちは本人の努力の問題と考える人が多く、貧しい人は社会の問題と考える人が多い、という傾向があるようです。社会全体としても時期によってどちらの考え方が強まるかが揺れ動いています。イギリスのサッチャー政権がサッチャリズムと言われる政策を展開していった1980年代くらいからは、世界的に自己責任的な考え方が強まりましたが、その結果社会的な格差が極端になっていき、いろんな矛盾が生まれることで、アメリカでさえ国民皆保険への支持が非常に高まるなど、また揺り戻しも模索されてきています。

※※ ただしここにも「恥ずかしさの文化差」があって面白いです。日本では男性の場合、並んで小便をすることは普通の事になっています。でも大便しているところは見られたくない感じですね。老人が自分で排便できなくなったときにおむつに移行しますが、これが大変な精神的苦痛を伴い、場合によってそれによって認知症の症状がぐっと悪化することもあるようです。そのくらい抵抗感が強いものです。今では考えられませんが、女性でも昔、特に農村の女性などは立小便が珍しくなかったようです。私自身、高校時代に一度だけ、おばあさんがお城のお堀に向かって立小便するところを目撃したことがあります。また中国には有名な「ニーハオトイレ」とあだ名される公衆便所がありました。今でも田舎では多いと思います。中国は男女の区別が伝統的にはとても厳しく、日本の「混浴」なんて信じられない、という感じなのですが、男女にきっちり分かれた公衆便所の中では一列に並んで掘られた穴や溝にまたがって、並んで大便をする、といった光景は普通に体験しました(中国で暮らせるかどうかの分かれ目はこれに対応できるかどうかだったり)。ニーハオトイレというあだ名は知り合い同士「ニーハオ」とあいさつしながら大便する、といった感じのネーミングですね。フランスの貴族なんかは女性でも庭に出て、あの広がったスカートでしゃがんでそのまま庭に用を足したようです。私が行った時にはパリなんか、道は犬のふんだらけだったりしましたが、昔は人糞が普通にまき散らされていたようで、おしゃれなパリのイメージとは全然違います。

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