はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.08.19

「切れる」のはなぜ?:「理由」をめぐるすれ違い

当事者が自分の言葉を持ちにくい理由」を読んだ、アスペルガー当事者の療育支援スタッフの大内雅登さんからご意見をいただいて少しやりとりをして、面白いことがわかってきたように思うので、少し書いてみます。

療育支援の中でときどき問題として挙げられることに、「子どもが切れやすい」ということがあります。この「切れる」ってなんでしょう?なぜ切れるんでしょう?

とりあえず二つの場合を思いつきます。ひとつは「突然怒りだしているんだけど、なぜ怒っているのかがわからない」場合。もうひとつは「怒る理由はわからないでもないけど、なぜそこまで激しく怒るのかが理解できない」場合です。

たとえばあるお子さんの例ですが(内容は少し変えておきます)、兄弟や友達みんなで水彩画を描いていた時に、弟が肘枕をするように顔を机に近寄せて、絵を斜め横から眺めながら楽しそうに絵を描いていました。兄はそれを見て、突然手元にあった筆洗い用の水を弟の顔にぶっかけました。まわりのみんなはビックリしてしまいました。

さて、みなさんはこの兄がなぜそんな乱暴なことをしたと思われますか?私は最初よくわかりませんでした。少なくとも兄が怒っていたのだろうとは思いますが、その理由がよくわかりませんでした。あえて言えば「弟が肘枕をするように」というように、多少お行儀が悪いとも言えることがあるので、それで怒ったのかもしれませんが、でももしそうなら「行儀悪い!」とまずは口で言えばいいことですし、それでも言うことを聞かなければ大人に言いつけてもいいでしょうし、手で頭を起こしてもいいでしょうし、何も水をぶっかけるようなことでもありません。

あるいは兄はそれ以前からなにかむしゃくしゃすることがあったとか、相当いらついていて、弟は不幸にもその怒りのはけ口になってしまっただけなのかもしれませんが、どちらにしても「水をぶっかける」というのはおよそ適当な行動とは見えず、単に衝動的に攻撃したこと、兄が「切れた」ことなんだという理解しかできなかったんですね。

ところが大内さんがそれを聞いたときの解釈は全然違いました。兄は弟を大事に思っているから水をかけたんだというんです。「??????……」というのがそのときの私の反応です。

関連して大内さんはご自身の経験を教えて下さいました。息子さんとおじいちゃん(大内さんの父)のからんだ話なのですが、おじいちゃんが息子さんのためにおいしいお菓子を買ってこられたのですが、翌日大内さんはそのお菓子を捨ててしまったのだそうです。

これだけ聞くと、大内さんがよほどおじいちゃんとの関係が悪くて、たとえば子どものころ、自分のためには何もしてくれずに虐待されるような状態が続いていて、そのおじいちゃんが孫に対しては手のひらを返したように大事にするふりをするので、その欺瞞的な振る舞いが許せず、怒りを止められずにお菓子を捨てた、というような物語を想像するかもしれません。

でもそうじゃないらしいんですね。大内さんの怒りは実は息子さんが原因だったらしいんです。せっかくおじいちゃんが買ってきてくれたお菓子をその日は食べずにほったらかしにしておいた、ということに怒りを感じられたそうです。その怒りの表現が「お菓子を捨てる」ことだったわけですね。つまりこういうことです。

祖父が孫にお菓子を買ってきてくれた 【⇒ 孫は食べずに放っておいた ⇒ 祖父の気持ちを無にする行為に父が腹を立てた】 ⇒ 父は祖父が買ってきたお菓子を捨てた

周りから見ると、直接見えているのは【 】の中を省いた以下の事だけです。

祖父が孫にお菓子を買ってきてくれた ⇒ 父は祖父が買ってきたお菓子を捨てた

ですから、父が祖父によほど怒りとか恨みを持っているのか、というような解釈になります。で、この話が上の「水を弟にぶっかける」話と共通性があるんだというわけです。大内さんの理解はこうです。

弟の行儀が悪かった 【⇒ 兄は行儀をよくしなければならないと親に教えられてきた ⇒ 弟の行儀の悪さを直してやらなければならないと兄は考えた ⇒ 「お前(弟)がやっていることは間違っている」ことを知らせる手段を探した ⇒ 手近に水があった】 ⇒ 弟に水をぶっかけた

けれども【 】の部分は周囲の人には見えません。ですから周囲の人にとっては

(弟の行儀が悪かった) ⇒ 弟に水をぶっかけた

というものになり、しかも( )の中もすぐには原因として気づきにくいものだったりします。

ということで、どちらにしても【 】の中が見えてこない限り、わけのわからないことで突然に怒りだした、つまり「切れた」状態として見えることになります。しかも自閉系の方の場合、この【 】の中を相手に説明しなければならない、という気持ちが起こりにくいこともあるようです。だから聞かれればそう話すけれど、自分からわざわざ説明することもない。ましてや言葉で説明することのむつかしい年齢の子どもであればますますそうなります。

「切れやすい」と見える子どもの場合、結局大人から見て【 】の部分が見えにくい状態にあるんだ、ということがこういう例からも見えてきます。だから子ども自身としては、その子なりに意味があってやっている行動、場合によっては大人から「正しい」と教わったことを実現するための行動であるにもかかわらず、それを無視されてショックを受ける。そのことがまた自分の怒りを増幅して、自分でもコントロールできない状態になって暴れる。そんな展開があるんだと考えられるわけです。

ただ、私から見てこれらの行動の理解がむつかしい理由は、【 】の中が見えにくいことだけではなさそうです。もう一つ、仮に【 】の理由があったとしても、なぜその時に「お菓子を捨ててしまう」とか「弟に水をぶっかける」というやり方になるのかがピンとこないわけです。

あえて言えばそれだけ激しい行動をとることによって、相手に「これだけ重要なことだと気づきなさい」という意図を含んだことなのかもしれないのですが、しかし現実的な効果としては、相手はそういう意図を理解する以前に、腹を立てたり恐怖を感じたりしてしまい、意図の理解どころではないように思えるわけです。

というところまで考えてくると、そこで公開講座の当事者インタビューの中で大内さんが語られていたことが思い起こされてきます。学校でのお子さんへの対応などについて、担任の先生などが大内さんから見て理不尽と思われることを平気で言われたりしたときに、やはり突然に断固として厳しくその問題(正論)を主張されることがあったそうです。

先生はビックリされるようですが、主張そのものは正論で否定もできないこともあるのでしょう。「お父さんがそこまでおっしゃるのなら」と対応を変えてくれたということでした。

というわけで、相手からすると大内さんが「切れた」状態にも見えるかもしれませんが、大内さんは一方で非常に理性的に物事を判断される方でもあるので、この場合は一応【 】の中も合理的な形で説明されることもあって、その主張が受け入れられたわけなので、大内さんとしては「目的を達成した」状態になります。

大内さんはときどきこういう形で「突然怒り出す」と相手に見える行動を採られるようなのですが、そのことを「予定調和的衝突」という面白い言葉で表現されました。予定調和というのは最終的に必要な状態に到達することです。そのための手段として衝突的な状況を作るというわけですね。

そこでもうひとつポイントかなと思うのは、この時先生の考え方自体が正しい方向に変わる、ということは大内さんは期待はしていないと言われることです。ただ現実の対応が変わることで、実際の当面する問題は解決するので、そこまでを目標にしているだけというわけですね。だから療育支援の時には子どもに対してそういう形で対応することはないと言われます。子どもを理解して、子ども自身の理解の仕方を調整することで、課題となる問題を解決しようとするスタンスを大事にされているからです。

大内さん位に経験を積んで、状況に応じて大内さんが適切と考える行動の仕方を切り替えることができたり、自分の考えを合理的に相手に説明する訓練を積まれている場合は多少違いますが、子どもなどは到底そういうことは無理です。だから

★自分が当然(または正しい)と思ったことはストレートに実現しようとする
★その手段が相手にとって意味がある(または効果がある)かどうかについての判断はまだむつかしい
★自分がどうしてそういう行動を採るのか、その理由や意図について相手に説明する必要をあまり感じられていない(※)

といったことが重なって、周囲から見てわけもわからず「切れた」状態に見え、そしてその行動は周囲から見て「悪い」行動なので、その子自身の理由や意図を聞き取ることなく「駄目でしょう!」とまず怒る、といった展開が生じやすくなるのだと考えると、これらのことがだいぶわかりやすくなるように思えます。

 

さて、ここまでの話を「当事者が自分の言葉を持ちにくい理由」の議論とつなげて考えてみます。

当事者がコミュニケーションで困難を感じやすい理由は、周囲の言葉が基本的に定型的な感覚で生きやすいように作り上げられているために、それとは違う特性から違う感覚や理解なども持っている当事者の方にとって、うまく自分の気持ちを言葉で理解し、人と共有するのがむつかしくなってしまうからだと考えられたのですが、それでなぜ「自分の感覚にフィットする言葉」を持ちにくいかというと、それは少数派なので、新しく作ったり人々と共有したりすることがやりにくいからだ、と考えてみました。

 

「切れる」ということも、やはり自分の怒りをうまく表現する言葉を持てなかったりすることで、人に理解してもらえずに怒りの激しさが増す、ということがあるわけですが、今回の大内さんとのやりとりでもう少し見えてきたことは、自閉系の方自身が自分の気持ちを言葉で表現する、ということについて何らかの理由であまり積極的でない、ということも関連している可能性がある、ということだと思います。

その場合、なぜ言葉で表現しようとしないのかについては、二つの可能性があって、ひとつは気持ちを言葉にするのが何らかの理由で苦手だから、というもの。もう一つはやろうと思えばある程度は言葉にできるし、だから「聞かれれば説明はできる」んだけど、何らかの理由でその必要性をあまり普段感じていないから、というものです。

このあたりのことは職場その場でしばしば問題になる「報連相」の不足、ということにもつながっていく部分がありそうです。自閉系の方は「報連相」を不注意で忘れるのではなく、その必要性がピンとこないということがあるようですから。

年齢などによっても違うでしょうし、たぶんその両者が相まって、ということなのかなと今のところ想像するのですが、このあたり、結構重要な問題がありそうです。

 

たとえば療育支援の時に、そういう「切れる」状態になったとして、周囲はどうしてもまずその「行動の是非」を考え、「叱る」とか「やめさせる」というところに最初の視点を持っていきがちになります。実際例えばそれが暴力的な行動であったりすれば、周りの人の事を考えればそうなるのも当然というところもあります。

けれども子どもの視点に立ってみれば、「当然のこと」「正しいこと」を目指してその行動をしているのだとすれば、そのことを認められずにただそのためにとっさに選んだ手段だけを取り上げて全てを否定されたように感じてしまうでしょう。

もちろん療育支援のスタッフの方も、ただ一方的に否定するということではなく、いったん危険を回避した後では「どうしてあんなことをしたのかな?」などと子どもの気持ちを語らせようとしたりすることの方が普通でしょう。けれどもその段階で二つの事が壁となって立ちふさがる可能性があります。

一つはその子が自分の気持ちをうまく表す「自分の言葉」を持てていない、あるいは相手に伝わるような「自分の言葉」を持てていない場合です。だから子ども自身としてはそれなりに説明しようとし、あるいは説明したつもりになっても、聞き手の大人の方が全然それが理解できず、「ちゃんとした理由」として認めてくれないためにお互いの間に厚い壁が築かれてしまう、という展開です。

もう一つは今回考えてみたような、子ども自身があまり「説明する必要性」を感じていない場合ですね。そうなる理由の一つとして可能性があるのは、一番目に書いたようにそれまで説明したつもりでも伝わらないという経験が多いために「説明することに意味を感じない」となってしまっている場合ですが、その場合についての対応としては昨日書いた「子どもが「悪いこと」をしたとき:誰の責任?」の話がある程度有効になるかもしれません。「正しいことを教える」のではなく、「一緒にいい方法を考える」というやりかたですね。

これらのことも「当事者の視点をふまえた療育支援」の具体的な内容として、さらに考えていく必要があるように思います。

 

 

 

※ このパターンについては、自閉系の方にしばしば見られそうですが、そうはいってもどこまでが自閉系の特性の問題なのかはいろいろ考えてみる必要がある気がします。たとえば江戸時代の薩摩藩の武士の気風について、司馬遼太郎が強調することの一つに「議をいうな」というのがあったと言います。いろいろ理屈を言うな。行動だ。ということ、朴訥さを重視する態度でしょう。ごちゃごちゃいうのは精神の惰弱さ、卑怯さを表すという感じ方があったのかなと思います。薩摩藩で使われていた示現流という剣道の流派について、自分は北辰一刀流の使い手である坂本龍馬が即戦力として重視していたらしいですが、それこそ上段に構えた刀を真っすぐ振り下ろすシンプルな動作が重視されていたようです。相手に合わせて調整するなんていう感じがないですね。剣道の達人でもある大内さんによれば、フェイントをかける、といったしぐさ自体も、一般に剣道ではあまり好まれず、それを多用するような形でいくら試合に勝ち続けても、昇段試験では一定以上には上がれないそうです。同様に武士道の精神を語ったものとして有名な「葉隠れ」では、やはり九州鍋島藩の古武士山本常朝の「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という有名な言葉があります。「武士たるもの、主君に死ねと言われたら、理由を問うこともなく直ちに死ねなければならんのだ、それこそが武士道である」という感じだと思うのですが、ここでも「理由を説明する」ということについて否定的な態度が見られます。同じ武士でも惰弱とみられていた関西などでは多分だいぶ様子が違うんだろうなと思いますし、こういう「理由を説明しようとしない」態度は、単に特性の問題だけではなく、文化が大きく関係しているだろうと思えます。

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  1. こどもサポート教室「きらり」女池神明校 こどもサポート教室「きらり」女池神明校

    怒りの理由について話を読んでいて、驚愕しました。多分に漏れず、現象だけでは理解できませんが、理由を読んだら気持ちがわかりました。
    怒るとき、その心中や理由を細かく丁寧に説明しないよなあと思って読んでいました。
    たとえば自分の言ったギャグを事細かく説明していたら、面白さも伝わらないこと以外に、自分が白けてしまうだろうことが予想されます。
    同様に怒り(切れる)も説明していたら、そのパワーが萎えてしまうだろうと思います。冷静になってしまったら、ギャグも怒りも意味をなさないのではないかと。(怒りは感情のエネルギーをぶつける操作の一つだと思っているので、目的が達せられなくなる)
    そう考えると、自分にとっての当たり前や常識を説明しないのかと思いまいした。
    また、怒っている理由のなかで、自分の感覚で当たり前のことや常識を改めて説明するということも感情的にしにくいことかと思います。その結果、突然切れる、わけがわからないという状況になってしまうのかもしれません。
    なんとなくですが、当事者が言葉を持ちにくいというのとは少し違うところもあるのかなと思いながら読んでいました。