はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.08.20

「気持ちを言葉にすると否定される」(大内さんコメント)

「切れる」のはなぜ?:「理由」をめぐるすれ違いに大内さんからコメントをいただきました。説明のために言葉を補足した部分[ ]と読みやすさを考えて段落に間をあけた部分がありますが、あとはそのままご紹介します。タイトルは私が勝手に文章中から抜き出して使いました。

ご紹介する前に少し私のスタンスを説明したいと思います。
このブログでは可能な限り当事者の視点を大事に考えたいと思っています。正確に言うと、当事者の視点と定型発達者の視点のずれを考えていきたいということですが、そのために「自分とは違う当事者の視点」を想像することが必要になります。

けれどもそのように「当事者の視点」を想像しているのは私なのですから、言ってみれば定型的な私の単なる思い込みである可能性は常にあります。

いや、可能性どころの話ではなく、実際に「つまりこういうことでしょう?」と当事者に尋ねてみても、とんでもなく外れていることがいやというほど繰り返されてきました。それで改めて説明をしてもらっても、その説明がまた「?」になったり、その説明についての私の理解がまた相手の方には的外れだったりということも繰り返されました(※)。

というわけで、私がいつも気にするのは、私の理解の仕方が、当事者の視点から見て納得のいくものかどうか、ということです。ですから、私が書いたものを当事者の方(この場合は大内さん)がどう読まれるかどうかは、私が自分の議論の妥当性を判断するとても重要な基準になっています(※※)。

以下大内さんからのいただいたコメントです=============================

自閉のこと、文化のこと、なるほどなぁと思いながら拝読しました。
何らかの理由で気持ちの表現に積極的ではない、という部分に「気持ちを言葉にするのが苦手だから」と「気持ちを言葉にする必要性を感じないから」のふたつの可能性を示唆してくださいました。

後者の必要性を感じない理由として、「すでに気持ちを表しているから」と「気持ちを言葉にすると否定されるから」があるようにも思えます。
もうひとつ「言葉にしないほうがコミュニケーションが成立するから」というのも頭に浮かびます。

先天的に視線を含めた表情の変化に気づきにくい自閉系は、特異な言動により周辺者に諦められることも少なくありません。「もういいわ」と明らかに「よくない」表情と口調で突き放されます。「よくないんやろ!」と言っても「もういいって」と怒られますから、後天的にも言葉と表情の一致がつかみにくいです。

ただでさえ分からない他者の思考が、感情と言葉の不一致でさらに分からないものにさせられていきます。
相手の気持ちが分からないのに、自分の気持ちが言葉にできるでしょうか?態度で表すところが磨かれていきますよね。
だって、定型周辺者も明らかによくないという顔で接してきますから。言葉よりも行動が大切という学習をせざるをえません。

すると、もともとの言動の苛烈さを発揮することが社会参加という構図になります。プリン[お菓子]を流しに叩きつけているのに、それ以上の言葉が必要でしょうか、ということになります。

一応「何怒ってんの?」とは聞かれます。でも話したところで伝わりません。所長のブログにあるように、怒っていることとプリンを叩きつけることがつながらないんですね。だから過剰な言動に走っている自覚があればあるほど、人には語りません。語れば思いが伝わる前に否定されますから。
「そんなに怒ることがあったんやろ?言ってくれないとわかんない」なんて言われると、ますます言えません。だって、そんなに怒ることじゃないんですからね。笑

そんなわけで、「すでに気持ちを表しているから」と「気持ちを言葉にすると否定されるから」があるように思いました。

塾講師時代からの経験なんですが、自己効力感の低い子と「絵しりとり」をするときまって丸とか四角を描くんです。
たとえば、前の人がリンゴを描くとします。次にその子が丸を描きます。「もしかして碁石?」とか聞くと「うん」と嬉しそうです。そういう子は「ゴムまり?」と聞いても「うん」と言います。自分の絵の解釈を他者に委ねるんですね。
(そうこうしているうちに、その子が少し複雑なものを描いてきます。ここが大人の力の見せ所です。なにがなんでも正解しなければならないと思っています。そこで正解された瞬間から、その子は絵による表現にたじろがないようになっていくと思っています。)

今日は、すぐに暴言を吐く女の子の支援でした。
関係性ができ、暴言がなくなっていました。その子との普段の会話はこんな感じです。

普段の会話
女児:昨日テレビ見たんでぇ。
大内:面白かった?
女児:(間があって)今日なぁ、○○先生と遊んだ。
大内:そうなんや。何したの?
女児:(間があって)△△ちゃんなぁ、この鉛筆持っとんで。

今日
女児:今日なぁ、お買い物したんで。
大内:やったやん!何買ったの?
女児:○○(姉の名)の部屋に荷物いっぱい置いとんで。
大内:おっきいのも買ったから?
女児:うん。いっぱいなんで。
大内:お部屋せまくなっちゃうね。
女児:お父さんとお母さんの部屋やからせまくならんのやで。
大内:暑かったもんなぁ。あ、でも明日から学校か。
女児:学校なぁ・・・・・・きもい。
大内:嫌な人がいるの?先生?
女児:先生、きもい。
大内:なんか言われるの?
女児:男の先生、きもい。
大内:僕も男やけど、大丈夫?
女児:△△(別の事業所の名)、きもい。

とまあ、こんな感じです。
途中まで頑張って会話を重ねてくれたんですね。
ところが上手くいかなくなっちゃいまして、絵しりとりで言うところの丸とか四角に走っちゃいました。
今回は「きもい」という言葉です。
明らかにコミュニケーションがとれない返事をすることで、コミュニケーションが成立していくんですね。
ただ、大内がきもいとは言いたくないから、少しずつ話をずらしている(思い上がり?)感じはあります。

この子は、得意な暴言の中からマイルドな表現を選び、繰り返すことで会話を重ねてくれました。
これが「言葉にしないほうがコミュニケーションが成立するから」という例となります。
ちなみに支援後片づけをしながら、「今日はいっぱい話してくれてありがとうな」というと最高の笑顔を(マスクをしているので思い上がり?)見せてくれました。

 
 
※ このように、お互いに相手のいうことを理解しようとして尋ねたり答えたりしても、そのやりとり自体がズレてわけがわからなくなってしまう、という展開は何も定型VS発達障がい者の間にだけ発生するわけではありません。たとえば私が北京師範大の姜英敏さんと行った共同研究では、日本の大学生と中国の大学院生に同じ映画(張芸謀監督「あの子を探して」)を見てもらい、日本と中国それぞれで別々に感想を言い合ったり、ネットを使ってお互いの感想について議論し合ったりして、「相手と理解の共有を目指す」ということをやってもらいました。その時にも全く同じようなことが起こります(山本・姜2011「ズレの展開としての文化間対話」。山本・高木編「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」第一章)。また日中韓越国際共同研究でお小遣いの使い方をめぐって議論した際も、特に「子ども同士のおごりの可否」をめぐって白熱した議論が展開しましたが、同様の観点から呉宣児さんが異なる文化背景を持つ研究者同士の理解のズレの展開過程を分析しています(呉2015「文化差が立ち現れる時・それを乗り越える時」。高橋・山本編「子どもとお金:お小遣いの文化発達心理学」第10章;Oh Sun Ah,2020“When Difference Appears, and How to Overcome the Difference”
文化とは何か、どこにあるのか:対立と共生の心理学」でも論じましたが、こういうコミュニケーションのズレは、お互いの考え方、視点、感覚が異なるときには常に発生するものであり、さらに原理的に言えばすべてのコミュニケーションはズレながら進行するものだということになります。

※※ ただし定型が優位な社会で育った発達障がいの方の場合、「当事者が自分の言葉を持ちにくい理由」に書いたように、そもそも定型的な理解の枠に自分を無理やり押し込めざるを得ない状況で生きられてきたため、私が定型的な感覚で誤解して話しても、それを「定型的に理解して」肯定されることもある、という点が少しむつかしいところです。たとえば自閉系の方は「共感能力がない」とか、ひどい言い方だと「(人としての)感情がない」とまで暴論を吐く定型の人もありますが、当事者の方自身が「私には感情がありません」と言われたりすることもあるんですね。なぜそういうことが起こってしまうのかはまたいつか書ければと思いますが。

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