2020.08.29
自閉系の子が「嘘つき」と見られてしまう場合
鈴木領人さんの【当事者が語る発達障がい】当事者の視点から考える療育⑤目指すべき目標についてが私にはとても刺激的でした。
詳しくはご覧いただきたいですが、そこに紹介されている事例がほんとに考えさせられるのです。
ひとつは勉強はよくできるが国語の文章を読んで感想を書くのが苦手な子の話です。感想を聞かれてもそこに書かれていた「事実」を答えるだけになる。それだけのことならある意味よく聞く話で、たぶん「人の気持ちを理解できない」とか「表面的な出来事の背後の内容を理解する力が乏しい」などと言われておしまいになることが多いでしょう。
興味深いのはその先です。鈴木さんがさらに掘り下げて感想や意見を聞き出そうとすると、「周りから優等生と思われる正しいことを自分の意思として言ってしまう」という展開になる。ところが現実にはその子はそういう「正しい」行動はとれていないので、周りから見れば「嘘つき」とみられてしまいます。
鈴木さんはこう書かれています。
感覚に大幅な誤差があることによって、聞かれていることに関しての答えが相手が求めている答えになっていなく、これが嫌われてしまう原因になっていると思われます。
この意味を理解するために、二つの事を区別してみましょう。ひとつは「私が実際に感じていること、実際にふるまっていることを自分に語る」ということ(A)で、もうひとつは「人に聞かれて自分の感じていることや振る舞いを相手に語ること」(B)です。
通常の定型的なコミュニケーションではAとBが一致しなければなりません。それが「正直」なことで、それが一致しない時はなにか質問の意味を取り違っているか、あるいは「嘘」をついていることになります。
ところが特に自閉系の方の場合、その二つの世界が別々のものとして作られていく場合があると思えるわけです。
思いかえしてみると、自閉系の方たちは、しばしば「正しいとされるコミュニケーションでのふるまい」を自分の正直な感覚とは切り離して行おうと苦労されていることに思い至ります。その理由は多分こういうことです。
定型が求めているやり方は、自分にとっては自然に理解できるものではなく、意味が分からなかったり違和感を感じるものだったりする。けれどもそうやって求められているふるまいをしなければ怒られ、「こうしなければいけないでしょう」と言われる。
子どものころは基本的に親の言うことは絶対と思っていて、それに従おうとします。だから「自分としてはピンとこないが大人から言われたやりかたを実行すること」が「正しいこと」なわけです。つまりBの世界で求められていることはAの世界とは最初からズレる形で作られるのですね。そしてそうやってズレていることが「正しい」と認められることなわけです。
ちょっと不正確な言い方になりますが、Aの世界を「本音」の世界、Bの世界を「建前」の世界と呼んでみましょう。そうすると、Bの世界で質問をされたときには建前で自分を語ることが「正しいこと」だとごく自然に思うようになるでしょう。それはAの世界とはもともと関係のない世界として感じられているからです。
もちろんすべての子がそうなるとは思いません。ただ子ども自身の素直な感じ方を無視される形で外から「正しいこと」が形式的に押し付けられるような経験を積み重ねるほど、子どもはその二つの世界を切り離して理解するようになるでしょう。そうしないと怒られるし、しんどくなる。そうすれば褒められるからです。
そう考えてみると、これもまた「当事者が自分の言葉を持ちにくい理由」などで考えたことにつながる話になります。
そんなふうに理解してみることで、私の中でクエスチョンマークがたくさんついていたいろんな出来事が、かなりつながって理解できるようになりました。
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
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- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
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- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
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