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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.09.20

発達障がい者の特性にあった新しい文化の創造

先日、研究所のメンバーと当事者研究の綾屋紗月さんと今後の発達支援のあり方について、すこしゆっくり話し合う時間が持ててとても刺激的でした。話し合いながらその流れにしっくりくるものとして私がごく自然に思ったことは、発達障がい者の特性にあった、新しい文化を作っていくことがこれからの大事な課題なんだなということです。そう考えるとこれまでうじうじ考えてきたことが無理なく表現できるようになってすっきりしました。

定型的な特性に合った形で「こうあるべきだ」「こうしなければだめだ」「これが出来なければいけない」といった基準(約束事)が作られたとき、発達障がいの特性を持つ人はその基準は自分には合わないことがあります。たとえていえば、耳の聞こえない人も、大変な苦労を伴って練習すれば相手の口の形で話していることを想像し、声に出して会話をする、ということができるようになったりしますが、自分でも自分の声が聞こえないのですから、声の出し方を健聴者のように調整することがむつかしく、その発音は意味は相手に伝わるものの、やはり健聴者の発音とは異なったものになります。それと似ていますね。持って生まれた特性がお互いに違うのですから、相手の特性にあったふるまい方はやはり自分にはしっくりこなかったり、習得がものすごく大変になることは当然です。

聴覚障がいのみなさんは手話によって独自のコミュニケーションの形を作り、そこで健聴者の文化とは違った聾文化というものを自分たちが生きている、ということを自覚するようにもなられました。音声言語は使えないという特性を前提に、手や表情によって作られる手話のコミュニケーションが、健聴者のコミュニケーションの世界とは少し違った独自の世界を作り上げていくわけです。そしてその世界が聾文化の世界ということになります。

文化とは何か、ということは昔から議論百出でいまだに専門家の間に統一した意見は見られませんが、私はとてもシンプルに「共に生きる形」と考えています。人は人とコミュニケーションによって一緒に生きています。そしてコミュニケーションがうまくできるにはそれを成り立たせるための基準(約束事)がいろいろあります。人間以外の動物の場合はその基準が基本的に遺伝によって決まっているため、お互いのやりとりでその基準がズレることは少ないのですが、人間の場合は生まれた後にその約束事(基準)を周囲から学んでいき、さらに自分の日々の生活の中で周囲の人とその約束事(基準)を少しずつ変えていったり、新しい約束事を作ったりするので、他人との間ではお互いの約束事がズレてしまうこともよく起こります。

そうすると、だいたいは同じような約束事を共有している人同士ではコミュニケーションがうまくいきますし、約束事がズレてしまっている人同士ではうまくいかない、ということが起こります。その「コミュニケーションがうまくいかない人たち」のことを「違う文化の人たち」と考え、うまくいく人たちを仲間のように考えて「私たち同じ文化の人たち」と見るようになるのですね。

ここで大事なポイントは周囲の人たちと約束事がズレてうまくいかない場合、自分だけがズレてしまうと感じられるときには「私たち」が成り立たず、「みんなと違う変な私」という見方になってしまうということです。だからそこには「私の文化」は生まれません。自分は「みんなの文化」の中での異端者、困った人になるだけです。

ところが自分の周囲にいる人たちとは違うんだけど、そのほかに自分と同じような約束事でコミュニケーションをしようとする人たちが見つかったとします。そうするとそこではお互いにコミュニケーションが成り立ちやすくなるので、そうなると私は「みんなの文化」の中の異端者、困った人、ではなく、周りの人たちの文化とは異なる約束事で生きる「違う文化を持つ私たち」の一員になる訳です。

「みんなの約束事がうまく使えない私」という理解だと、「駄目な私」としか見えなくなってしまうでしょう。私は周囲の人たちの中で、一人だけ変な奴になり、孤立していきます。でも「違う約束事をほかの人たちと使える私」という理解だと、別に自分を否定的に見る必要はなくなります。その時は私は孤立した一人の私ではなく、同じ約束事を共有する仲間の中の私になるからです。

聾文化の話から理解していただけるかと思いますが、コミュニケーションの約束事はその人たちが生きている環境やその人たちの特性に基づいて作られていきます。音の世界を前提にした音声言語でのコミュニケーションの約束事と、音抜きの世界を前提とした手話でのコミュニケーションの約束事とは自然に異なるものになる訳です。

同じようなことが発達障がいと定型発達者の間でも起こります。感覚過敏という言葉にも表れていますが、発達障がいの人の物の感じ方は感覚レベルから定型発達者とズレていることが良くあります。つまり自然に感じている世界自体にお互いにずれがあったりするわけです。そしてコミュニケーションもそのずれを前提に行われることになりますから、見えている世界、感じている世界がズレていると、お互いに相手を理解しにくく、共通の約束事が作りにくいということが起こります。

それはたとえてみれば、雪と氷に覆われた北極圏で狩猟を行いながら生きているイヌイットの人たちが、その世界に合わせて作り上げていく約束事と、熱帯雨林のジャングルで生きるアマゾンの狩猟採集民が、その世界に合わせて作り上げていく約束事とはずいぶん異なるものになるようなものです。

発達障がいの人の状態がこの例と違うのは、イヌイットの人たちもアマゾンの人たちも、自分と同じ世界を共有する人たちが周りにいて、かりにお互いに出会ったとしても、「あの人たちとは違う私たち」という感覚で私が孤立しない状況がある点です。ところが発達障がいの人の場合は周りの人たちの中で、自分の世界を共有してもらうことがむつかしく、「私たち」という感覚が生まれにくくて孤立した「私」になってしまう点です。

そうすると圧倒的な多数派の人たちが共有している約束事の世界にうまく入れない、孤立した「私」は「駄目な人間」というイメージになりやすくなり、自分を肯定しにくくなります。「あの人たちとは違う私たちの一員」ならそんなに自分を否定せずに、逆に肯定できる可能性も高まるのですが。

もう一つの違いは、同じ発達障がいの人たちの中でも、その特性はそれぞれにかなり違っていて、発達障がいの人同士なら同じ約束事を作って生きやすいかと言うと、そこにも困難が生じやすい場合があるということです。だから、たとえば支援級や支援校のように、発達障がいの子が多く集まるような場所なら同じ約束事がすぐに成り立つかと言うと、ひとりひとりがものすごく個性的だったりして、そう簡単にはそうはなりにくい、ということも起こります。

そういう点でいくつかの困難はありながらも、孤立して否定される状況を抜けて、自分を肯定的にみられるような「私たち」というつながりを模索していくことがとても大事なんだと思います。そして今、同じ発達障がいの人たちでも特性はかなり多様、という面を強調しましたが、実は定型発達者と一言で言っても、その特性もまたものすごく多様なのですね。個人差がものすごく大きい。同じ文化に属するとみられている人たちもそれぞれがものすごく個性的なのと同じです。

つまりもともと文化というのは多様なひとたちを最低限のところでうまくつなぐように作られた約束事なわけです。だから違う多様性の在り方についても、そこをうまくつなぐような約束事が見つかれば、そこに新しい文化が生まれます。そしてその文化の約束事は、その人たちには比較的自分の特性に合った、生きやすい約束事になり、人とのコミュニケーションの新しい形、新しい「共に生きる形」になる訳です。

幸いネットによるつながりは、住んでいる場所を超えます。言葉の違いの問題がありますが、言葉さえ通じれば世界中どこの人とでもつながれます。そうすれば、自分の周囲には同じような人が全くいない場合でも、似たような人たちとつながるチャンスはとても多くなります。そうすれば、より自分の特性に合った形の約束事に基づくつながりも生まれやすく、そこに新しい文化が生まれることになります。

発達障がいの人は定型の特性に合わせた多数派の文化の中で孤立して自分を肯定できない状況に陥りやすい。そこで自分たちの特性にあった文化を創造していくことで、違った視点から自分を肯定して前向きに生きていくことができるようになる。そうやっていろんな文化、いろんな生き方が生まれていくことで、世界がさらに多様化していきます。世界がそれだけ豊かになっていくわけです。

そこには「文化間摩擦」の問題も新たに生まれますが、言ってみればそれはそれまで定型社会の中で発達障がいの人が「摩擦を起こす存在」と見られていたのが、「お互いの間の摩擦」として見つめなおされただけのこととも言えます。そして今までは「発達障がいの責任」と考えられがちだったことが「お互いの責任」に変わっていくことになるのですから、その方が大きな前進と言えないでしょうか。

発達障がい支援は「足りない力を補うこと」なのではなく、「共に生きる形」の新たな創造、新しい文化の創造を目指す活動なんだと考えると、ちょっと前向きな気持ちになりません?

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