はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.09.13

「渦中の視点」と「当事者の視点」

当事者の視点ってどういうものだろう、ということを考えていくと、浜田寿美男客員研究員が供述分析の中で重視してきた「渦中」の視点の話とつながっていくことに気づいた、という話です。

 

「渦中」の視点というのは聞きなれない言葉だろうと思います。浜田さん自身は「『渦中』の心理学へ」(新曜社)の中でこんな風に説明をされています(p.120-121)。

人は身体でもって生きています。ですから、誰もがその身体の位置から、それぞれの世界をおのおの生きているわけで、たとえ神になったつもりで、天上から人間界を見下ろし、人間の行動や心理の普遍法則を論じることができたとしても、それによって人間というものを知ったことにはなりません。

たとえば、ある人が別の人にこんな体験談を語ったとします。

「この間、フリーマーケットでお店を出していた時にさ、なんか子連れの若い男性がやってきて、すごい値切るんだよね。まあ少しくらいは別にいいんだけどさ、もう半値以上に値切ってきて、しつこいんだよ。嫌な奴だな、と思ってふと気づいたらね、その時の僕と同じような格好して、髪形もほとんど一緒なんだね。なんだかそれも嫌な気持ちになった。僕は持って行っていたパイプ椅子に座りながら適当に相手をしてたんだけど、その人はずっと店の前で立ちながらまあしつこいしつこい。子どもは退屈して横で騒ぎまくるし、まったくまいったね」

読まれていて「ふーん、そんなことがあったのか」程度で内容に特に違和感はないと思います。それを図で表すとこんな感じでしょうか(「通常、人に語るときの語り方」)。

けれどもこの「あとから思い出して人に語る」ときには、その時に自分が見えていた実際の体験の世界とはちょっと変わった語り方を私たちがすることにお気づきでしょうか。

そうですね。そこでは相手と話をしている自分自身も自分に見えているかのように、ちょうど空中から全体を見渡しているような感じで話しているのですが、実際に体験している時=渦中の見えの中には自分自身は体の一部などを除いて見えていないのです(図「渦中の体験時の見え方」)。

つまり、自分の体験を語るときには、人は体験している自分自身もある意味で客観的に外から(他人の目で)見たように話す傾向があります。そしてその方が「事実」を相手に語るにはより伝わりやすいのです。

逆にそういう客観的な視点抜きで体験を語られると、小さな子が自分の体験を語るときのように、話が見えにくくなり、「もっとわかるように(客観的に)話して」と言いたくなったりします。たとえば

「うんと、ボールがあって。それでパパ『だめ!』って。『いや!』って。泣いたの」

とか。これは架空の例ですが、こういう話し方は「自分がその時見たもの、思ったこと」などをそのまま話す感じで、「相手から見たらどう見えるんだろう」という視点から組み立てられないので、相手には話が見えにくくなります。聞き手は「だれがいやっていったの?それであなたが泣いたの?」など、足りない主語などを確認しながら「事実」を再構成して理解しなければなりません。

つまり、「そのことについて体験のない人が聞いてもわかるように、あなたが体験したことを整理して、主観的にではなくてもっと客観的に話しなさい」という訓練を子どもたちはずっとさせられて、それで話し方が上手になって、わかりやすくなるわけです。「誰が聞いてもわかりやすいような客観的な説明の仕方」、それが浜田さんの言い方では「神になったつもりで、天上から人間界を見下ろ」して語る語り方になります。なにしろ万能の神は、すべてのことを理解する存在なわけで、その意味で「客観的」な視点を持てる人ということになります。

 

さて、この「主観的な体験の語り方」と「客観的な事実の語り方」のズレが、時に取り調べの中で深刻な冤罪を生むことにもなります。再び浜田さんの説明の続きです。

しかし、一方で、人どうしがそれぞれ互いにまったく別個の世界を生きているのではないこともたしかです。人どうしがその身体でもって出会い、そこに一つの共同の世界を描き、ときに相互の利害をぶつけ合い、さらにはその関係の中で互いに心理的、物理的に拘束しあう。そうして別々の身体をもつものどうしが、出会い、同じ一つの世界を生きるというのもまた、人間の現実です。……虚偽自白の話も、それは単に被疑者の心理的特性や被疑者の置かれた物理的な状況の問題ではなく、何らかの理由で疑われた被疑者の「渦中」と、その被疑者に疑いを向け、捜査する取調官の「渦中」との出会いの中に生まれる関係的な状況の問題です。

実は「主観的な体験の語り方」のは子どもだけではありません。大人でも多かれ少なかれそういうことは繰り返されます。私も奥さんから「あなたの話は誰が言っている話なのか分からなくて理解しにくい」とよくしかられます(‘◇’)ゞ。

取調の場は事件について自分は何も体験を持っていない取調官が、自ら体験している(真犯人であれば)被疑者から「事実」を聞き出したり、あるいは目撃という形でその場を体験した目撃者から「事実」を聞き出す場です。(ただし冤罪の場合は体験していない人にやはり体験していない人が「事実」を聞き出そうとするという奇妙なことが起こります)

人は誰でも自分の体験を相手に伝えようとするときには、完全に客観的に相手にわかるように説明することはできませんから、どうしても取調官は話を聞いていてわからないことがたくさん出てくる。特殊な例を除けば取調官は「事実」を明らかにしようとしているので、相手の話が主観的でわかりにくいところはいろいろ質問して再構成し、最終的にはこれも事件を体験していない裁判官にもわかりやすいように調書にしていきます(※)。

現実には取調官も神様のようにすべてを知っていて調書を作成するわけではなく(もしそうならそもそも取調も調書も必要ないですし)、自分の想像力を使って相手の主観的な話を理解し、そこから客観的な「事実」を組み立てることしかできません。そしてその理解や組み立て自体が実際には取調官の主観による不完全なものとなるのですが、実際の裁判では意外にそのことが理解されないままに見過ごされています。

そんな風に、体験者の体験の「主観的な説明」を取調官が理解できるように組み立てなおして「客観的な事実」の供述に仕上げていき、それを聞いた(読んだ)裁判官がほかの証拠と合わせてさらに「客観的な事実」に基づく判決を作り出していくという過程の中で、結局その「客観的な事実」も取調官や裁判官が自分たちの主観で理解できるように作り直したものであるために、様々な勘違いや無理な解釈を重ねることで多くの冤罪が作り出されてきました。

ところがいったん判決が出てしまうと、社会的にはそれはほぼ完全に「事実」として流通してしまうために、冤罪を晴らすのは容易なことではありません。

 

さて、ここでちょっと冤罪にはまって有罪とされてしまった無実の人の立場に立って考えてみてください。その人は自分の体験から、自分が無実であるということを知っています。他に目撃者などがいなくても、その人にとってはそのことが絶対的な、動かすことのできない「事実」です。人から見れば主観的なんだけど、自分にとっては絶対の事実なんです。

ところが裁判ではそのことを体験もしていない人(裁判官)が「あなたは犯行を行っている」と宣言します。それは社会的には「客観的な事実」として流通して、その人の人生を決めていきます。とても奇妙なことなのですが(周防さんの映画「それでも僕はやってない」のラストの判決シーンがとてもよくその奇妙さを描いています)、現実にそういうことが世界中でたくさん起こっています。のちにDNA鑑定のやり直しや真犯人の登場などで判決が誤っていたことが確定した事件は決して少なくありませんが、おそらくそういう形で無罪が明らかにできた事例はごく一部と思われます。

 

浜田さんはそういう不幸な展開をした事件について、取調官や裁判官によって「客観的な事実」とされてしまった出来事が、「犯人」の供述のおかしな解釈によって作られてしまっていることを膨大な資料の分析から明らかにしていきます。その時に手掛かりにするのが「渦中」の視点ということなのです。

たとえば浜田さんが供述の信用性判断の重要な指標として発見した「逆行的構成」という概念があり、これは今ではかなり裁判官も実質的に使うようになってきています。時々供述者はその体験の時にはまだ知りえなかった「客観的な結果」とか、その時に自分には見えなかった「客観的な事情」を、あたかもその体験の時に知っていたかのように供述してしまうことがあります。

浜田さんの大変な努力もあって25年かかって冤罪として確定した甲山事件の例で説明してみます。この冤罪事件は知的障がいの子どもたちの生活する施設で園児2人が相次いで失踪し、やがて浄化槽の中から溺死して見つかったというできごと(※※)から生み出されたものなのですが(※※※)、そこで起訴のための証拠として使われた園児供述に、ある子から出来事の3年後に初めて出てきた「施設の先生(冤罪被害者)が死んだ子を連れだすといころを見た」という証言がありました。さてこの供述は子どもの本当の体験を表した言葉と理解してよいでしょうか。もしそう理解できるのなら、その先生は極めて怪しいということになります。

出来事の直後には全然そんな話をしていなかったのに、3年後に初めて出てきたというところで、なんか怪しいなと思われる方もあるでしょうが、浜田さんの分析はそのレベルではありません。そこで注目されたのはそれに続くその子の供述です。

そうやって連れ出されるのを目撃した後、彼はすぐに窓の方に行って、どうなるのかを見ようとしたというのです。ここに「逆行的構成」があります。

施設で先生が子どもをどこかに連れていくこと自体は日常的にあることですから、それ自体はとくに不思議なことでもありません。仮に本当にそういう場面を彼が目的した経験があったとしても、それがいつのことなのかを確定するのはむつかしいことです。(実際記憶にある日常繰り返される出来事のひとつがいつ起こったのかを確定するのは、何かの特別の手掛かりでもない限りは私たち大人にとってもとても難しい作業です)

さらに決定的なことは、「外に出た」といっても、そこから先どこに行ったかは全くわかりません。浄化槽の場所はドアを出て左に曲がり、建物の角をさらに左に折れてしばらく進んだ方にあるのですが、いくらでもほかの方向にも行けますので、ドアから出たからといって、その時点ではどこにいくのかは予想できません。

ところがその子はあたかも「浄化槽で事件が起こった」ということをあらかじめ予知していたかのように、そちらの方向の窓にすぐに駆け寄って外を見たわけです。これはのちに遺体が発見されて「事件」の場所が特定された後の知識によって、後知恵で作られた供述ということになります。つまりは体験から離れた物語だったのですね。

こういう後から得られた知識などを交えて、より「客観的」に物語を組み立ててしまうことを逆行的構成と呼び、供述が体験を反映していないことの重要な証拠として今では裁判官を含む多くの人に認められるようになってきています。このような重要な発見もまた、浜田さんの「渦中」への注目から初めて生み出された成果になります。

 

ではこの「渦中」の話は「当事者性」とどうつながるのでしょうか。

それは事件に関する供述であれ障がい(の特徴的な行動)であれ、それを理解するうえで、「その体験者自身の見方、視点」を大事にする、という点でつながるのです。

供述は上に説明したように、体験していない人(取調官や裁判官)が「外側の目」で「客観的」に供述を理解し、評価します。けれどもその「客観的」な評価もまた取調官や裁判官の主観的な解釈によって行われざるを得ないので、ときどきびっくりするような間違いも起こります。同じように発達障がいの子の行動も、定型発達者の持つ「外側の目」で「客観的」に評価されたとしても、それはあくまで定型発達者を基準にした定型発達者としての主観的な評価という面を逃れられません。

ですから「自閉系の子が「嘘つき」と見られてしまう場合」にも書いてみたように、発達障がい者の行動についてときどきとんでもない誤解が生まれて、本人からすればものすごく不当に周りから責められてしまうようなことも起こりますし、実際の裁判でもどうも発達障がい者の供述が誤解されて有罪になってしまったのではないか、と感じられる例などを私も見ることがあります。

 

通常は「あなたの言うことは主観的でよくない」と、「主観的」という言葉は否定的なニュアンスで語られることが多く、「もっと客観的になりなさい」とたしなめられたりします。そして「事実に基づいて客観的に判断しなければならない」という考え方が広くいきわたっています。

その考え方に私も全く異論はないのですが、問題は私たちはすべてを理解できる神様のような存在ではないので、そこでいう「客観」もまた自分の主観を通してしか見えてこないものだということです。そこを見逃してしまうと、自分と異なるタイプの主観を持った人の話を勝手にこちらの主観で誤解したうえで、それを「客観的な事実」として相手に有無を言わさず押し付けてしまうことが起こります。

そこから冤罪にしろ、発達障がい児・者の二次障がいにしろ、たくさんの悲劇が生まれるのですが、大事なことは主観だけに凝り固まることでも、主観を一挙に飛び越えて自分が神様になったような視点ですべてを決めつけてしまうことでもなく、お互いの主観を丁寧にすり合わせながら、おたがいにより納得のいく共有された見方を探していくことだろうと私は思っています。それこそが私たちにとって現実に可能な、本当の意味での「客観」なのだと思えるのです。

 

 

※日本の調書は「私は…」とその人がそのように話したという体裁で書かれますが、実際は取調官の作文によるもので、供述者の語った言葉そのままではありません。そのため取調官が勘違いして聞き取っても、その勘違いした内容が書き取られることになり、供述者がそれに気づいて訂正を求めない限り、それがそのまま実質的には証拠の一つとして裁判で用いられることになります。起訴状やそれに付随した説明の書面は、それらの証拠類を総合してさらに「客観的」に検察官が全体を再構成したもので、その再構成の過程で本当は供述者が言いたかったことが全然変わって理解されてしまい、おかしな物語が生み出されることも少なくありません。それが取調官に悪気が無くても「冤罪」が作られる重要な理由ともなります。興味のある方は、たくさんある浜田さんの関連書の中で、たとえば「もう一つの帝銀事件」(講談社メチエ)などを読んでみてください。無実の(と思われる…実際獄中死されるまで歴代の法相も執行できなかった)一人の有名画家が、どうやって「凶悪殺人犯」にされてしまったのか、下手な推理小説よりよほどリアルでいろいろ深く考えさせられると思います。

※※ 実際には園児同士が遊んでいる中で起こった、殺意のない一種の事故の結果であった可能性が高いことがのちに明らかになっています。

※※※ 関連する書籍としては、浜田さんの「証言台の子どもたち」や、私たちがやったシミュレーション実験を説明した本「生み出された物語」などがあります。

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