はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.09.27

違うけど同じ:共生への足場

前回の「私には感情がない、と言う人がいるのはなぜ?」でも、共生のための条件として、お互いの違いを知ることを改めて強調しました。人間ひとりひとりみんな違う身体を持ち、違う環境に育ち、その結果違う感じ方や違う考え方を持って生きています。ただ人は基本的にどうしても自分の視点に縛られるので、そのことになかなか気づきにくく、「みんな同じ」と無意識に思い込んでいて、その結果自分の基準を無自覚に相手に押し付けている、ということが普通に起こり、そしてその結果、相手が苦しむこと、そしてお互いに苦しむことが繰り返されるわけです。

共生は「違うもの同士の共存」の関係です。ですから共生のためには「相手は自分とは違う」ことに繰り返し注意する必要があり、それを忘れると相手を自分に同化するということを無自覚に行ってしまいます。それは無意識に人を自分に強制的に従わせようとすることですし、その結果相手がそれに従わないと怒りが発生し、激しく攻撃し始める、ということも起こります。お互いにそういうことが起これば激しい戦いになります。

 

ただ、そのことを自覚したうえで、「違うもの同士」が共存していくには、改めてお互いに共有できるものを見出していくことが必要になります。事例検討会を各地の支援スタッフの皆さんと行う中で、最近改めてそのことについて思いを深めていて、そのことについて少し書いてみたくなりました。

この「違うもの同士の同じ部分」の見つけ方について、大きく言うと「外側からの目」で見て説明する方法と、「内側からの目」で見て共感的に理解する方法があると思います。そこで特に「内側からの目」の重要性について考えたいと思います。

 

事例検討会では日々子どもの支援にあたっているスタッフから、自分が今悩んでいるケースを報告してもらい、そのケースの子の状態をどう理解したらいいのか、今後どのような対応が必要になるかを議論していきます。悩まれているケースですから当然のことですが、「どう理解していいかわからない」状態で困られているわけです。その意味で「違う」ことは意識されているのですが、「何がどう違うのか」がわからない状態と言えます。「何がどう違うのか」がわかれば、「じゃあこの子にはこう対応しよう」と考える可能性が出てくるからです。

その違いを理解するときに、スタッフの皆さんが手掛かりにすることは「発達障がい児の特徴」です。たとえばADHDの子は「取り組む課題のほかに刺激になるものがあると、それに注意がそれやすい」という話があって、それで「いらない刺激を与えないように、周囲を整理して課題を行う」みたいな対処法が考えられる。

発達障がいの子には「感覚が過敏な子がしばしばいるので、それでそのことが気になってしまって、本来やろうとしている活動がうまくできない」という違いがあって、だから「感覚過敏の可能性に注意して、それがあれば、その原因を取り除いてあげよう」という話になる。

ASDの子は「あいまいな表現で了解しあうことが苦手」だから「目に見える形で示して判断しやすくしてあげる」ことが必要と考えられる。などなど。いずれも定型との「違い」への気づきがあって、その違いへの対処の「テクニック」が指示されるわけです。

そこで問題になる「違い」のとらえられ方は、DSMやICDなどの医学的な診断基準にも見いだされるものです。つまり、「定型からの外れ方」というとらえ方です。そして定型からは外れて「理解できない」から、「テクニック」で対処し、あるいは問題をコントロールしようとする、という発想になっているのだと思います。

もちろん医学は生理学を大事な基盤にしていて、人間も生理学的な仕組みの基本は共有していると考えています。神経の働きやホルモンの働きなどなどの仕組みは、基本的に誰でも同じです。ただ神経同士の連絡の仕方とか、ホルモンの出方とか、そういう部分で人による差があるので、それがある限界を超えるとなんらかの症状の原因となる、という発想になっています。発達障がいと定型発達の違いを、そういう風に共通の基盤から説明しようとするわけです。

ここでも「違い」のあとにその違いを生み出す「共通の仕組み」に迫ろうとする姿勢があります。その結果、たとえば神経同士の連絡の仕方を調整するために薬を調整する、などの医学的な対処法が出てくるわけですね。

心理学的な技法でいえばこの点ではABA(応用的行動分析)が典型的でしょう。ABAの基本になっている理論は新行動主義の条件付け理論ですが、ごく簡単に言えば、ある程度進化したレベルの動物は自分が行った行動の結果が自分に都合よければそれを繰り返し、都合悪ければやらなくなる、という仕組みを持っている、という話です。人間でも儲かることはやるし、罰を受けるようなことはしない、犬でもえさをもらえれば芸を覚えるし、叱られればやらなくなる、池の鯉はえさをもらえれば人影を見れば寄ってくるし、餌なしに唯脅され続ければ人影を見れば逃げるようになる、といった風に、多くの動物に共有された普遍的な行動変化の仕組みです。

当然発達障がいの子どももその仕組みを持っているので、その「同じ」部分を使って子どもの行動を変化させようとするわけです。以上は最初に言った「外側の目」からの説明という方法になります。

 

ただ、私が事例検討会などのアドバイザーをやっていて、最近改めて強く感じるようになった「同じ」はそういう形の「同じ」ではありません。そういう人の体や行動のメカニズムの理解、人の心理の「外側」からメカを理解するような形での「同じ」ではなく、もっと素朴に人の気持ちの動き方として「内側の目」から「同じ」部分が見えるという話です。

そう書くと、とても違和感を感じられる方もあるでしょう。なぜなら、たとえば重い自閉の子が手のひらをひらひらさせ続けているのを見て、「うん、その気持ちよくわかるよ」とはなかなかならないからです。そういう「共感的理解」がむつかしいからみんなかかわり方がわからなくて苦労するわけです。

やはり自閉の子がひたすら一列にミニカーをきれいに並べて悦に入っている(要に見える)のを見て、「うん、それ楽しいよね」と共感するのはなかなかむつかしいことです。私はそのような遊び方を彼らの「美意識」として見ると、少しはわかったような気もしないでもないのですが、それも頭で考えたことで、共感できるわけではありません。

けれども、もっと素朴に、「葛藤を抱えてどうしていいかわからなかったら、いらいらしたり、怒りが爆発したりするよな」というレベルで考えると、「それは同じだよな」と思えます。「ひとからわけのわからない要求を繰り返されたらいやになるよな」「安心できる場がないとつらいよな」「ひとに受け入れられるとうれしいし、元気出るよな」などなど、ほんとに基本的な、素朴なところでは、発達障がいの子でも定型発達の子でも、さらには自分だって同じだと思えます。

事例検討をやっていて、子どもの「困った行動」について問題提起されたとき、私はその視点から問題を捉えなおしてみるようにしています。そうすると、いわゆる「それがその障がいの特徴なんだ」で説明が終わってしまうのとは全然違う展開が見られるんです。

ある事例検討会の話を例にとれば、支援の教室に通い始めて間もない、強い場面緘黙がある自閉系の子について、関係をとるのが当然むつかしかったりするわけですが、支援スタッフの方がお母さんには「それがこの子の性質なんです」と説明されて、「そんなふうに言われてもどうしようもない」と感じられていました。こういう理解の仕方はその子を「場面緘黙」という固定的な「症状」でとらえ、「だからしょうがない」となりやすいものです。というか、このお母さんは何とかしようとして何ともならず、もうあきらめのような気持もあって「それがこの子の性質なんです」と自分にも言い聞かせていたように思います。

けれども問題は「なぜ場面緘黙になったのか」ですね。そうすると「場面」緘黙ですから、緘黙になる場面とそうでない場面があるわけで、その場面の違いにその子はとても敏感だということが前提としてわかります。場面は「人の目」が絡んでいますので、「知らない人がいる場面」や「たくさんの人がいる場面」など、周囲の人々の状態がその子に影響していることも前提としてわかります。そしてそれはつまり「他者の目」にとても敏感なのだということもわかります。

そのあたりの「敏感さ」については緘黙のない子に比べて大きな違いがある部分です。だから「なんでこういう時に何もしゃべれなくなるの?」というのは理解しにくい。でもそこで「もし、自分が全然知らない人に囲まれて、それらの人にどう対応したらいいかがわからなくて極度に緊張して大混乱になったらどうなる?」というふうに想像してみると、その一つの対応に「黙り込んでしまう」という対応の仕方が可能性の一つとしてなんとなくわかる気になります。さらにそこでふるまいを間違えると、大変なことになる、と思えるような精神的プレッシャーが加わればますますです。

たしかにその子が緘黙になる場面の具体的な状態については、自分は緘黙にはならないとすれば、そこでは理解はむつかしいでしょう。でも「どう振る舞っていいかわからずに極度に緊張した場合」として考えれば、自分の感覚にもつながって理解ができるようになります。具体的なところでは違いがあるけれど、もっと一般的なところで考えると「同じ」というところが見えてくるわけです。

そうすると、子どもに対する姿勢も変わってきます。「この子はそういう性質の子」といって「私にはわからない」と切り離してしまう必要がなくなります。そうではなくて「それは誰でも緊張すればそうなるよね」といった共感的な理解がベースになりながら、「でもどうしてこの場面でこの子は緊張しやすいんだろう?」という形で、違いの生み出される過程を理解することが可能になる。

同じ足場が見えてくるから、その子と問題を共有できるという気持ちになれる。そのことを前提として、「違い」を理解してそれにあった対応を子どもとのコミュニケーションの工夫から探ろうとする展開が生まれます。

 

このお互いの違いを無視することなく、でも「足場を共有する」ことが共生にとってはとても大事だと思えるのですね。足場が共有されているから、おたがいに、言ってみれば「同じ人として」、一緒に問題に取り組んでいこうという姿勢につながりやすい。それは「わからない者」を「外側」からの理解でテクニックを使って「コントロール」する、といった姿勢とはかなり違うものです。前者は違いは持ちながらも同じ主体同士のかかわり方の対等な工夫になり、後者はコントロールするものとコントロールされるものといった上下関係に結びつきやすいからです。

そうなってしまうと関係が一方向のものになるため、コミュニケーションに困難が生じます。コミュニケーションで大事なのは、違うもの同士が「お互いを認め合う」という意味で対等な関係の中でお互いにやりとりをすることで、それが共生の前提だと思うからです。

もちろん「内側の目」で理解できることにはやはり限界があります。

私の心臓の鼓動がなぜ激しくなっているのか、といったことなら、アドレナリンや交感神経を持ち出して説明もできますが、「外側の目」でそれはメカニックな仕組みの理解にとどまりますが、同時に「緊張しているから」と「内側の目」で共感的に理解もでき、それによって「どうやって安心できる状態を作れるか」といった工夫が可能になります。

けれども「そもそもなぜ心臓は脈を打つのか」といったことについて、「内側の目」で理解することは不可能です。そこは生理学的にメカニズムを解明するしかありません。心臓が止まったり止まりそうになったら、そのメカニズムに従って物理的に胸を押したり、強心剤を投与したりといったことが必要でしょう。そこに「共感的な理解」は無力です。

そのことを前提にしながら、やはり事例検討会などでとても重要なことは、「内側の目」で子どもを理解するという姿勢を(も)しっかり持つことだろうと、改めて強く感じています。支援もまたそれによって成り立つコミュニケーションの一つだと思うからです。

 

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